2022年1月27日木曜日

2022年1月30日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 ―降誕節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 


説教=「痛みに寄り添う人、イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書1章40~45節.
(新約聖書63頁)

讃美= 301(1.4),399,544. 

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】

 2019年12月に中国の武漢から発生した新型コロナウイルス。今年で3年目の流行期を迎え、もはやマスクを着用しての日常は常識となっております。ウイルスの株も変異を繰り返し、現在ではオミクロン株にまでいたっております。事の深刻さは今でも変わりありませんが、わたしたちの身近なところでは日々の暮らしで気をつける習慣がある程度は身についてきた印象はあります。

 ただしそれが医療従事者の精神的な負担となりますと話は変わってまいります。昨年夏ごろに流行のピークを迎えたデルタ株に臨んでは医療崩壊が生じ「応援歌やスローガンではいのちは救えない」と怒り心頭の声があり、または行く宛のないまま何時間も路上にあり続ける救急車の姿がメディアに映し出されたり。心が折れて退職する看護師の姿もありました。場合によれば家族が偏見にまでさらされながら医療現場に立ち続けた人々を誰が支えたというのでしょうか。

 本日の聖書の箇所では「重い皮膚病を患っている人」の態度を軸にしながらイエス・キリストとの出会いと癒しのわざが記されます。「重い皮膚病」とはギリシア語では「レプラ」と称し、長らく「らい病」としても訳されてきました。『旧約聖書』の『レビ記』では、皮膚病に罹患している者は誰にも近づいてはならないとありますが、その時代の感染症対策として求められたのは、道ゆく際にも「わたしはレプラの患者です」と大声で宣言しなければならない、という倣いでした。もしもこの人が『律法』を重んじるあまり人の子イエスとの出会いに逡巡しているのであれば、福音書の物語のルーツとなる出来事は起きなかったはずです。けれどもイエスは自らのもとに来ずにはおれなかったこの病人に向き合います。人の子イエスのところに来てひざまずいて願い「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とすがる病人をイエス・キリストは「深く憐れんだ」とあります。さらにその憐れみは、単なる気持ちの問題としてではなく、「手を差し伸べてその人に触れる」わざとして現れます。このわざからさかのぼって人の子イエスの「深い憐れみ」を考えますと、この病人が罹患している病に感染するリスクをものともしない態度が窺えるというものです。言ってみれば、社会からも、その人自らも受け入れがたい弱いところ、弱点に触れてくださることにより、病人が一人背負い、苦しんできた痛みが癒されていくこととなります。肝心なことは、イエス・キリストとの出会いの結果そのような奇跡が起きたのであって、病の治療や緩和ケア―を第一の目的として病人はイエスと出会ったのではない、という点。それが「御心ならば」という言葉に集約されてまいります。人の子イエスは、この時代にありがちな、病を癒す呪術師として病人と出会ったのではありません。そのような人はどこにでもいたはずです。そうではなくて、あくまでもその時代に設けられた不文律の掟を超えて主イエスと出会いにきた病人の態度にイエス・キリストの深い憐れみが注がれた、とも言えるでしょう。

 それではわたしたちは、現在、深刻な感染症の中にありながら何ができるというのでしょうか。キリストに従うという言葉のもとでわたしたちに行えること、またできないことは確かにあります。わたしたちに求められている態度とは、感染症のもたらす不安から、まずは自由になること。それは祈りによって可能となるということです。さらには各々が病に罹患しないように備えられた役目を果たしていくことです。そして罹患され、癒された方々を温かく迎えるということです。イエス・キリストがわたしたちに感染を承知で日々の仕事に向き合えなどと仰せになるはずがありません。それはパウロが『コリントの信徒への手紙Ⅰ』6章9節以降で記す通りです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と、各々に相応しい神の愛の証しが大切だと説いています。病人は自らの病をイエス・キリストの前にさらけ出し、その痛みをイエス・キリストは恐れずにともに担ってくださりました。諸事情により制約を課された交わりは確かにあります。けれどもわたしたちは、感染症の時代を押してなおも呼びかける主の招きに応えていきたいと願います。主に備えられた安息の時を、イエス・キリストが整えた神の秘義の中で病人は味わいました。主が整えてくださった安息日を素直に尊び、祈りを重ねていくのか。この喜びを授かる智恵を求め、キリストに出会う道をともに探してまいりましょう。