2022年1月13日木曜日

2022年1月16日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

-降誕節第4主日礼拝-

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 

説教=「イエスに従ったのは漁師だった」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書1章14~20節
(新約聖書61ページ)

讃美=二編80, 二編195, 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 『創世記』でよく知られている物語に「カインとアベル」という話があります。アダムとエバが授かった長男カインと次男アベル。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなります。カインは土の実りを神への献げ物として、アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもってまいります。神はアベルとその献げ物に目を留められますが、カインにはそうしなかったとあります。結果としてカインはアベルに敵愾心を燃やして殺害に及んでしまいます。これが『旧約聖書』では初めて罪という言葉がそのものとして現われる物語となりますが、興味深いのはカインとアベルの兄弟が、個人であったのかそれともあるライフスタイルをともにする人々一般を示すのかと判断することで解き明かしの可能性が豊かになる点です。一見すると神の自分勝手な、ともすればえこひいきにさえ映るカインとアベルのお話ですが、カインが土を耕す者、アベルが羊を飼う者だというところを踏まえますと、次のような物語の可能性もまた広がります。カインは土を耕して収穫を授かり、その収穫を貯蓄して力を増すことのできる定住農耕民。すなわち環境に手を加えて収益の見通しを立てながら、やがては都市文明を築きあげていく力に富んでいる人々、アベルは羊を飼う者、すなわち牧畜や遊牧という仕方で羊を育んで暮らす人々だといたしましょう。いったいどちらの暮らしが不安定でしょうか。それは、生きものと直接関わりながら、汗を流しても貯蓄が困難な牧畜や遊牧だと言えましょう。伝染病が流行すれば家畜はたちまち死に絶え、潤いや草を求めてあちこちを彷徨い、猛獣に襲われる危険を絶えず暮らしの中で抱えています。もちろん定住農耕民もまた暮らしにリスクはつきものですが、いざという時には貯めておいた種籾で栽培をやり直したり、水路を拡張することも可能です。『創世記』で描かれる神は、弱い者に寄り添う神だという点を踏まえますと、「アベルの献げものに目を留めた」のは尤もだと気づきます。

 さて本日の箇所でイエス・キリストがガリラヤ湖の岸辺を歩きながら最初の弟子として見出すのはシモンとその兄弟アンデレです。この兄弟の職業を福音書の書き手は「漁師であった」とはっきり記します。そして主イエスは二人に声をかけます。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。この呼びかけに二人はただちに網を捨てて従います。次にゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしている様子を見て、主イエスが呼びかけると、父ゼベダイを雇い人と一緒に残し、イエスの後についていったと記します。父親には雇い人がいますから、跡継ぎもその中から見出せる可能性があります。肝腎なのは、この場で弟子として声をかけられ直ちに応じたのは資産家ではなく、前途が見込まれる秀才でもなく、エルサレムの聖職者でもなく、ただの漁師だったというところ。福音書の舞台での漁師の生活は不安定であるだけでなく、もはや時代遅れでもありました。ガリラヤ湖で魚を獲ったところでせいぜいのところ地産地消が関の山であり、ローマ帝国の市民層の食卓を賑わすこともありません。むしろこの時代のガリラヤ湖は、支配者に都合のよい水運のルートとしての役割が重要であり、湖を暮らしの場にしている人々などは眼中にされません。魚を漁る仕事は、いつ漕ぎ出した舟が転覆するか分からないという危険を伴う割には、まことに収入の少なく不安定な職種です。湖が荒れれば天候の回復をひたすら待たねばなりません。農家からすれば「怠け者」の烙印を押される職種です。その意味で言えば福音書に描かれる漁師には失うものなど何もありませんでした。だからこそ「人を漁る漁師になれ」とイエス・キリストから呼びかけれました。ちなみにギリシア語で魚とは「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」を意味する言葉の頭文字を集めた言葉(イクトゥース)でもあります。こうして漁師はイエス・キリストの名に根ざす交わりを、聖霊による知恵を授かりつつ舵を切ります。世のただ中で信頼という名の網を投げる役目をイエス・キリストから託されます。自己申告や自己実現ではなく委託されるのです。

 わたしたちはこの箇所を味わいながら、次の言葉を思い出します。それは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という、財産に恵まれた青年が嘆きながら去っていった物語に続くイエス・キリストの言葉です。イエス・キリストはこの言葉を語った後に「人間にはできることではないが、神にはできる」と語ります。『旧約聖書』で描かれる神は、虐げられた寄る辺ない人々とともにおられる神であり、主イエスに従ったのは漁師であったとの物語。律法学者であった使徒パウロもまた、全てを投げうちキリストに従いました。確かに世は混乱に満ちてはいます。その中でイエス・キリストに招かれた人々の道と交わりを、お互いに整えてまいりましょう。