―降誕節第7主日礼拝―
時間:10時30分~
説教=「神の愛から問われるありよう」
稲山聖修牧師
聖書=マルコによる福音書4章10~12節.
(新約67頁)
讃美= 298(1.2),520,541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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『聖書』を開きますと、『旧約聖書』ではおもに『律法』、つまり神の戒めとして表現される神との約束を、人の子イエスは群衆に向けて「たとえ」として語っている様子がいたるところに現われます。それは福音書のほとんどの箇所に及ぶと申しあげてよいでしょう。よく知られているたとえとは『マタイによる福音書』5章13節の「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」があげられます。「あなたがたの光を人々の前に照らしなさい」と言葉が続くのですが、この「あなたがたの光を人々の前に照らしなさい」とだけ言われても、日々の暮らしに追われている人々には何のことか分からないという場合があります。しかし「塩のたとえ」や「ともし火のたとえ」によって、群衆の暮らしの風景に聖書の言葉を重ねて、より分かりやすく、そしてより身近に聖書の教えを説き明かすにいたります。日々の暮らしに窮する状態と隣り合わせの中で暮らしに励む者であれば、誰もが人の子イエスの教えに耳を傾け、そして少なくない数の人々が喜びにあふれたことでしょう。
けれども、本日の『聖書』の箇所では次のように記されています。「イエスがひとりになられたとき、12人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。神の国は世の全ての悲しみに対する神の愛といのちの勝利であると、わたしたちは絶えず確かめてまいりましたが、実はその言葉だけでも、説明に及ぶという点では語り尽くせない話になります。ですから「たとえ」を用いるわけですが、気になるのは「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」という一節です。
実際のところ、イエス・キリストの教えにちりばめられた「たとえ」とは、何かのために利用したり、他者を見下したり、誇らしげに振りかざしたり、他者をやり込めようとした途端に本来の意味を失います。それだけではありません。単なる文芸批評に留まる言葉として用いた場合でも、それはわたしたちの暮らしには全く響かなくなってまいります。文学は個人の解き明しに留まるからです。もちろん話に関心がない場合は言わずもがな。それはその話に耳を傾けようとする相手への敬意と謙遜、そして愛がなければ無に等しいものとなってしまいます。その意味で言えば、イエス・キリストの教えにあるところの「たとえ」とは、聴き手が独りであるにせよ、集団であるにせよ、鏡のように映し出す力をも秘めています。合衆国大統領は、一般教書演説やしばしば戦争を行う前のテレビ演説で『聖書』から言葉を引用いたします。しかしその中でイエス・キリストのたとえが相応しく用いられているかどうかは疑問です。
それでは福音書の世界にあっては、名もない群衆として描かれるであろうわたしたちは、何を手がかりとして「たとえ」に耳を傾けていけばよいのでしょうか。それは、本日の『聖書』に記された「神の国の秘密」とわたしたちとの関わりです。それでもまだ難しければ、『ローマの信徒への手紙』12章6節の「イエス・キリストを通して神から備えられた信仰に応じる」と申しあげることもできます。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自はお互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい・・・(以下テキスト)」この「信仰に応じる」という態度こそ、頑張りに満ちた「行ないの法則」が取り除かれた後にある「信仰の法則」です。この信仰の法則を見出し、神様からの賜物で神自らの恵みである信仰に応じ、それが「神の愛から問われるありよう」となって、わたしたちには神の愛によるところの証しとして輝くこととなります。「たとえ」という「鏡」に映った自らの姿は絶えず新たにされていきます。わたしたちは神の愛の中で、そのありかたを問われています。その問いに耳を澄ませ、祈りの中で、コロナ禍の只中でも交わりを育みましょう。主なる神は「燻る灯心を消さず、傷ついた葦を折らない」お方です。