2022年2月10日木曜日

2022年2月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「湖上で語る、種まく人の物語」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書4章1~9節
(新約聖書67頁)

讃美= 517,504(1.3),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 大阪南部の代表的な祭礼として「だんじり」と「布団太鼓」といったものがあります。だんじりは今や全国的にも知られるようになりましたが「布団太鼓」の認知度は今ひとつかもしれません。黒壇の彫物で飾られた欅作りの地車を綱で大勢の人々が曳き、地車の屋根上で大工方が指示を出します。太鼓と拍子の音が風に乗ってくれば季節の訪れを感じます。他方で布団太鼓は江戸中期、神輿に乗せられた神々が各地を回る最中、その休み所として布団で飾り立てた神輿を用いたのが始まりだとの言い伝えがあります。四方を当時の庶民には貴重な綿布団で囲んだその中央には太鼓があり、「乗り子」と呼ばれる少年たちが乗り込みます。
 このように泉州には非常に近接した地域にありながら人々が曳き綱で走り回る山車のタイプと、肩に担いで掛け声とともに遠浅の海に入る場合もある神輿のタイプが併存しています。これは地域の人々の暮らしのあり方の違いを表していると言われています。山車の場合は農民、神輿の場合は漁村や海運を始めとした海と関わりのある人々。実のところ、農村に暮らす人々と漁村・海運に従事する人々のライフスタイルや価値観はかなり異なっており、場合によってはそれが摩擦や諍いに始まり村落相互の争いにまで発展する場合にもなりました。漁師は嵐が続けば沖へは漕ぎ出せず、副業として畑を耕そうものならば農家と仕事が重なってしまいます。大漁を祝える収穫があるときもあれば、そうでないときもありますが、いずれにしても品物そのものを貯蔵するには手間がかかり、長期に及ぶことは不可能です。雨が降ろうと風が吹こうと田畑を耕さなくてはならない一方で、漁民や船頭は風向きを読みながら船を守り、時には風が収まるのを待つほかない状況にも出くわし、時には農村・漁村の人々の衝突にもつながったと申します。
 本日の聖書の箇所では、福音書に描かれる人々の暮らしと併せてイエス・キリストが何を、そしてどのように語ったのかというその姿が描かれます。漁民も農民も、ローマ帝国を含めた海運を担ういわゆる人足もその場には居合わせていたことでしょう。「おびただしい群衆」。その様子がただ事ではなかったことを福音書は伝えようとします。イエスは湖の民に暮らす民の舟を借り、その上で舟に座って群衆に話しかけられました。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた、とあります。この時代の種蒔きは耕作地に無作為に蒔いていく方式だったようです。畝を作って均等に種籾を蒔くための道具があったようにも思えません。名もない農民が汗だくになりながら働く一日を見つめながら、蒔かれた種の行く末を語っています。農家の生活の苦闘の中で蒔かれた種が、決して安定した収益には繋がらないことも示されています。それは漁師が網を下ろしたり、船頭が荒れた湖に舟を漕ぎ出すように、責任と覚悟が問われています。懸命に働く農民。しかしその働きの成果が全て人の思うがままに操作できるものではありません。鳥に食べられたり、日差しに焼かれたり、茨に負けてしまう場合がほとんどです。『マルコによる福音書』には、種が神の言葉であるとの説明があります。神の言葉を聞いても響かない者もいれば、その場限りの気持ちの昂ぶりに留まり暮らしに反映されない者もいる。さまざまな思い煩いにより神の言葉の大切さに思いが届かない者もいる。しかし、その言葉を聞いて受け入れる者がいるという説明。この説明に先立つ先ほどの譬えでは、実りにつながらなかった状況は事細かに描かれますが、育って実を結んだその場所は、実にシンプルに「よい土地」と記されているだけです。それではどのような土地が「よい土地だ」というのでしょうか。それは、鳥が来ないように網を張る人々がおり、土地の石を取除ける人々がおり、痛みを押して茨を取り払う人々のいる場所です。たとえそこに鳥の大群が押し寄せても、石ころばかりが出てきても、茨に覆われた土地であっても、恐れるものは何もない。そこには神の言葉が響き、受け入れられ、豊かに実を結ぶ。そしてそれはあらゆる生活様式、暮らしの様を問わないどころか、互いに反目する人々に和解をもたらします。湖の上から農民の苦闘の実りを語られたイエス・キリスト。救い主の示す神の愛の真骨頂が示されています。神様はわたしたちを「良い土地」に変えてくださるのです。