2022年2月18日金曜日

2022年2月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

 ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

 


説教=「苦難の中で仰ぐ空、輝く」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 2章 1~5節.
(新共同訳 新約聖書 63頁)

讃美= 247(1.3),391(1.3),541.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 1960年~70年代のテレビでよくあった噺に「おかゆ」という作品がありました。長屋の一間が舞台となり、長患いを抱えて寝たきりになっている父親がそこにいます。昔でいう母子家庭だったのでしょうか。母親の姿はそこにはありません。寝たきりの父親の世話をするのはおそらくは一人娘。今で言うヤングケアラーとなります。「おとっつぁんおかゆが出来たわよ」「いつもすまないねえ」というやりとりから噺が始まります。高度経済成長期には、実は家族を支える絆には、少しばかりの煩わしいさも隠し味にできる、深さというものがあったのでしょう。かつてはコメディーとして描き得た世界が、もはや介護や生活保護の問題としては断じて笑い飛ばせないところにも原因があるかもしれません。「いつもすまないねえ」「それは言わない約束でしょう」という関係。実は多くの地域共同体から支えられてきた交わりのごく一角にすぎなかったのでしょうが、それでも、本来ならば公的支援によって充分なケアーを受けて当然の父親が「いつもすまないねえ、俺がこんな身体になっちまって」との負い目を抱えなくてはならなかったところに、素直に「ありがとう」とは言えない切なさが詰まっています。病を抱えたのはその人の責任ではありません。にも拘わらず、わたしたちは療養後には「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と挨拶を常識にしています。何の因果かはさておき、「負い目」もまた『聖書』では「罪」という表現に含まれてまいります。
 カファルナウムの町は、歴史資料ではローマ軍の駐屯地として栄え、多くの収税所があったところだとされます。確かに人口も多かったことでしょうし、人々の行き交う道も整えられていたことでしょう。しかしだからといって、道行く人々の交わりが常に喜びに包まれていたとは言いがたい。それは、人の子イエスがこの町で多くの癒しのわざを行ったことから分かります。軍隊の駐屯地として急激に繁栄する都市は、生活格差が生じやすく、さらにいえばそれまであった地域共同体が解体されて新たな町作りが行われていると言えるからです。その中で描かれるのが「中風に罹患した人」の物語です。中風は脳溢血などの後遺症で手足が思うように動かせなくなる状態を指します。現代でさえ脳をめぐる疾患は癒やしがたいものがあります。言わんやこの時代では、それこそ民間療法や身体を揉むような素朴な理学療法の他にはなす術がありません。支えてくれる人がいれば、この人は「いつもすまないねえ」と呟くほかありません。わたしたちは誰かを支えよう、助けようとするにあたり、何らかのやり甲斐なり力を感じます。反対に中風の人は「いつもすまないねえ」としか語りようのない哀しみを身体にも心にも湛えていたことでしょう。
 しかしそのような負い目を押して、今日の箇所では地域の人々が寝たきりの男性を助けようと一念発起いたします。身動きのとれない患者を戸板に乗せ、一目人の子イエスにあわせたいとの願いから、道なき道を越えてきました。おびただしい群衆の群れがそこにあり、人々の口からは「あの人はキリストだ」との言葉が漏れ聞こえます。しかし群れなす群衆は戸板を運ぶ4人と患者を通す道を与えません。またキリストがおられるであろう家には入れそうにもありません。そこで四人は日干しレンガの屋根を壊して寝たきりの仲間を吊り下ろすという誰も考えなかった仕方で、寝たきりの仲間にイエスを会わせようというのです。これほどまでに非常識な企てが、救いを求めて人の子イエスに歩みよる人々全てが見出したかは分かりません。家一軒を潰してまで、この四人は仲間を癒していただこうとするのです。家主には災難だったろうというような遠慮はどこにもありません。おそらく戸板の上で空を仰いだ患者も驚いたに違いありません。イエス・キリストはその人を咎め立てせず「わが息子よ、もう負い目を感じる必要はない。あなたを支える四人も、わたしも、あなたの家族なのだ」と語るのです。この「子よ(τεκνον)」との言葉をわたしたちは見逃しがちなのですが「若造・倅・こども」と広い意味を持ちます。イエス・キリストはこの場で、屋根を壊し戸板で吊り下げられている患者の仲間とわたしも家族なのだと語りかけています。もちろんこれは大胆な振る舞いですから、その場にいる人、とくにしきたりに囚われた頑なな律法学者は人の子イエスを非難いたします。しかしイエス・キリストは他ならないこの人の癒しに全力を傾注され、その上で「すまないねえ」から「うれしいなあ」へと戸板に横になる人の思いを変えていったのです。神の愛の注ぎ、聖霊の注ぎがこの箇所にも見いだせます。
 ユダヤ教の書物『タルムード』の言葉に「ひとつのいのちを救う者は世界を救える」とあります。組織論優先ではなく、たった一人の教会員の声に耳を傾けるところから新たな備えを積み重ねたいと願います。輝く空を仰ぐために。