-クリスマス礼拝-
時間:10時30分~
動画は2種類
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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【説教要旨】
説教=「いのちの光輝くクリスマス」
稲山聖修牧師
聖書=ルカによる福音書 1章39~56節
(新共同訳 新約100ページ)
讃美=103, 107, 109.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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聖書の言葉は、記された時代から残る公文書上の記録ではなく、公文書には記録されるはずもなかった人々の眼差しに則して、救い主の誕生を描いてまいります。聖書はわたしたちの手元にありますから、神の言葉はわたしたちの近くにあると申せましょう。普段、わたしたちはその言葉にどれほど真摯に向き合っていることでしょうか。
本日のテキストは、マリアが天使ガブリエルから祝福され、御子イエス・キリストを身に宿すことを知り、男性と関係せずに身ごもることに戸惑いながらも、その出来事を受け入れていく経緯を描いてまいります。その出来事は、もし人生設計という考えがあったとするならば、その計画そのものを放棄させるほかないものです。もしも今の時代、わたしたちの親しいところの女性が同じ事情のもとに置かれたとするならば、祝福など到底できはしないでしょう。社会や人間の常識は、たとえいのちを宿すという崇高な出来事であったとしても、一定の秩序を踏まえなくては、たちまち排除の対象となります。いのちよりも秩序が優先され、規格の外にはみ出す事態があれば眉をひそめ、非常識であるとの罵声を浴びせて排除します。しかしマリアは天使ガブリエルの祝福を決して拒否しませんでした。他の誰に認められようとそうでなかろうと、マリアは厳かに、そして堂々と「お言葉どおり、この身になりますように」と応えます。その告白自体が神への深い信頼に基づいています。それは揺るぎのないものです。その後マリアは親類のエリサベトのもとを訪れユダの町へとまいります。胎に宿ったいのちがおどる中、聖霊、すなわち神の愛の力によってエリサベトは「あなたは女性の中で祝福された人。授かったいのちも祝福されている。主が仰せになったことは必ず実現する。これを信じた人は何と幸いなことか」と声高らかに伝えます。排除されるはずのいのちが神の豊かな祝福にあるという、クリスマスの原点がこの福音書の序章には流れています。『ルカによる福音書』は、イエス・キリストの系図に先んじ、規格外の事情でいのちを授かった女性が社会全般から排除されていった中で、世に言えばエリサベトの高齢の妊娠、そしてマリアの許嫁ヨセフとは異なるところでの身ごもりをまことに豊かに祝福します。イエス・キリストがわたしたちにもたらす平安を先駆けて書き記すのです。そして続くマリアの賛歌では、主の祝福につつまれた女性の大胆で力強い歌が献げらます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜び讃えます」。マリアは祭司ではありません。しかし本来はエルサレムの大祭司が献げてもおかしくない言葉でもって主なる神を讃美します。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」。マリアの暮らした時代、古代ユダヤ教の世界では法廷での発言権は女性には一切与えられていませんでした。「身分の低いはしため」とは、字面通りにとれば女奴隷を示しますのでなおさらです。この一節をマリアの謙遜の表現と見なすのは後の世、教会がローマ帝国に認められてからとなりますからマリアの歌はそれまで人々を縛ってきた世の縄目から解き放つという意味でも、存分に大胆かつ過激です。なぜか。それは、身分・経済の格差が大きく転換する時が神の力により、まさに訪れると説くからです。この繰り返しが「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ…」と続く歌に連なります。54節から56節ではイスラエルの民に根ざしたイエス・キリストの救いが異邦人に及ぶと強調されて終わります。
この一大事件の報せを前にして『ルカによる福音書』が献呈された役人テオフィロは何を感じたことでしょう。そして人生設計を幾度もいくたびも練り直しながら生きるわたしたちは、その節目をどのように迎えることでしょう。わたしたちはその度ごとに、宿に泊まる人々が遠ざけたであろう家畜小屋で初声をあげ、そして飼葉桶で眠る御子イエス・キリストの前に跪きたいのです。地球規模の大転換が今まさに起ころうとしています。しかしその巨大な渦巻きの中にいるわたしたちは、果たして何が起こるというのか知るよしもなく、全体像を推し量ることさえできません。さまざまな心配事や思惑の中でわたしたちの心の眼は霞んでいるのです。だからこそ、わたしたちはマリアの賛歌、マグニフィカトを何度も口ずさみたいのであり、口ずさめる場所を整えていきたいのです。それはイエス・キリストの飼い葉桶を整えるわざに重なります。そして今・この時代に世に遣わされたいのちの光、イエス・キリストの光につつまれる喜びをともしましょう。そしてその交わりを広める証しのわざの原点に立ちましょう。キリスト教の、そして教会の基本は、苦難と復活のキリストの誕生を祝うところに根ざします。メリークリスマス!