2022年4月22日金曜日

2022年4月24日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「あなたがたに平和があるように」
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 20 章 24~29 節.
(新約聖書210頁). 

讃美= 243(1.2.4),151,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  25年ほど前に世の中を席巻した音源媒体にコンパクトディスクがありました。レーザー光で金属箔につけられたデジタル信号を読み込んで音を再生するというもので、発売された当時は劣化もしない理想的な録音媒体としてPRされました。カセットテープが販売されたときも、オープンリール形式の磁気テープ式録音に較べてその手軽さがもてはやされましたが、保存する温度や湿度でテープが伸びてしまったり絡まったりすることもありましたので、次第に磁気媒体から光学媒体に代わってまいりました。
 ただコンパクトディスクも問題がなかったかといえばそうではありませんでした。理論的には半永久的に音源が記録できるはずでしたが、実際にデジタル信号を記録した金属箔は殆どがアルミニウム。つまり30年ほど絶ちますとアルミニウムが錆びて音飛びが激しくなって音源が再生できなくなります。ゴールドでは永久保存が出来ますがそれはあまりにも高価です。その後デジタル方面へ進化する音源もないわけではありませんが、時代の変化の中で変わらない音源があります。それはレコード。今でもレコード針を販売し続けている会社は倒産せずに残っています。レコードの音は生演奏を正確に記録したデジタル音源とは異なった趣があります。柔らかな響きがあり、とげとげしいところがありません。レコード盤に刻まれた傷をなぞり、針はその凹凸を受けとめながら音を紡いでいきます。
 傷をなぞってさまざまな名曲が再生されていく。アナログという点では一歩遅れています。そしてそれは本日の聖書の箇所の人の子イエスの弟子トマスにも重なります。なぜならトマスは甦られたイエス・キリストとの弟子たちの交わりに一人出遅れてしまったからです。トマスは決してイエス・キリストを信頼しなかったからかような所作に及んだのではありません。十字架に掛けられる前、イエスが重い病に罹っているラザロに出会うためにエルサレムの近くの村ベタニアを訪ねようとするときには、身の危険を感じて尻込みする他の弟子たちを差し置いて「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とまで語った人ではあります。しかしそこまで情熱的であったが故にこそ、人の子イエスが十字架につけられて殺害されてしまったという報せに深い絶望と幻滅を覚えるほかなかったことでしょう。
 「神様っているんでしょうかね」と問われる機会が増えました。30年前の湾岸戦争ではテレビで戦争が中継されました。ウクライナ戦争ではデジタル技術の結晶であるスマートフォンで戦争が中継されています。カメラが切り替われば次から次へと悲惨な画面が映ります。そのせいで気持ちがくたびれて、罪責感から身動きがとれなくなってしまう人も増えています。けれどもよく見れば同じ画像が何度も用いられ、別の場所の出来事とないまぜになっている報道にも気づかされます。戦争に情報戦はつきものですが、特に日本の大手マスメディアによる動画の使い回しには注意が必要です。しかし。それでも「神様っているんでしょうかね」という問いそのものの重さは変わりません。この問いかけは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったトマスの問いかけにも、度重なる悲惨な報道により「神様っているんでしょうかね」「復活なんてあるんでしょうかね」と問わずにはおれない言葉は重なります。
 そのようなトマスの態度をイエス・キリストは否定されませんでした。八日後にトマスと出会うイエス・キリスト。イエスはトマスを拒絶するどころかその指をご自身の傷に重ね、その手を脇腹の槍に刺された傷跡に押し込もうといたします。目の前の主イエスは、トマスのために誰かが編集したり作り出したりしたものではありません。文字通りトマスがその傷をなぞることによって、復活という出来事が何度も何度も轟いていくのです。それが集う弟子たちの間で響き渡る「あなたたちに平和があるように」との宣言に繋がっていきます。
 トマスのように、自らが疑ってかかる課題に正面切って臨む人はまれです。しかしわたしたちはさらに、わたしたちの身近なところで傷つき悲しんでいるこどもたちや家族、友人を知っています。その中に戦火を逃れてきた難民の方々がいればなおのことです。肌や瞳の色を問わず、言葉を問わず、身体の特性を問わずに、できる限りで構いませんから、手を差し伸べて触れてみてはいかがでしょうか。それはとりもなおさず、復活されたイエス・キリストの傷に触れるわざに繋がり、ひいては霧のような憂いと疑いを晴らす交わりへと繋がります。復活のイエスはトマスに、神自らの誠実さをお示しになりました。その神の誠実さに、わたしたちもキリストを通して触れているのです。




2022年4月15日金曜日

2022年4月17日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―復活節第1主日礼拝― 

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「主の復活はすべてのいのちの希望」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 20 章 11~18 節.
(新約聖書 209 頁). 

讃美= 155(1.2.4),148,540. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 初代教会の時代、教会の象徴として用いられたのは十字架ではありませんでした。むしろ好んで用いられたのは羊飼いに重ねられた救い主の姿であり、「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」とギリシア語で綴った場合の頭文字をまとめた単語である魚の図案であり、または苦しみの多い困難な世の波風の中で逃れの交わりが備えられ、なおかつ『旧約聖書』のノアの物語と重なる舟が用いられてまいりました。なぜ十字架が用いられなかったのかと言えば、端的に申しあげてそれは処刑の道具であり、しかもそれは日本でいう磔刑に匹敵するほど目を背けられるほどのもので、ローマ帝国の内部ですらその是非の論議が停まらなかったと申します。日本の磔刑と異なるのは用いられる材木が人間の背丈程度のもので、その刑によって息絶えた亡骸は晒されたまま禽獣の餌食となるところにあります。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と刻まれた板を打ち込まれた柱で絶望の叫びをあげて事切れた救い主イエスの亡骸。本来ならばさらしものとされるところでしたが『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを怖れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」がピラトのもとに遺体の引き取りを願い出たとあります。このヨセフは「議員」であったと記されているところを考えますと、エルサレムの神殿中枢に出入り出来るだけの立場にあった模様ですが、死刑囚の関係者であると公にし、ローマ帝国の総督に申し出るだけでも、清水の舞台から飛び降りるほどの勇気が要ったことでしょう。またこの福音書3章で夜分に人の子イエスを訪ねて「神の愛による統治」「新しく生まれるという出来事」について語らったニコデモもともにいて、イエス・キリストのご遺体を引き取り墓地に納めたとあります。二人はイエスに心を寄せていたファリサイ派の人物であったと申しますから、言葉にならぬ心痛を抱えていたことでしょう。
 その心痛を表わすかのように本日の箇所で記されるのが、マグダラのマリアの涙です。鞭打たれた亡骸でもありますから傷みは激しかったことでしょう。マグダラのマリアが誰であったのかをはっきりと示す箇所は実のところ『福音書』の物語にはありません。しかし『ヨハネによる福音書』の場合では、ベタニアで主イエスの足に香油を注いだ女性がマグダラのマリアであるとの理解もできます。となれば彼女はイエスに復活させられたラザロの妹にあたります。不治の病を癒してもらった恩人でもある人が葬られたところへやってきたのはよいものの、墓から石が取り除けられ、弟子たちも首を傾げる始末。途方に暮れるほかないマリアは涙ぐむほかありません。彼女は十字架の出来事の傍観者ではなく当事者でした。目の前に白い衣を着た人々が二人、一人は遺体が置かれた頭、もう一人は足の方に座っていたと申します。この二人が訪ねるには「どうして泣いているのか」との問いです。マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか分かりません」と答えるほかありません。愛する人を失うことは痛ましいことですが、その遺体が見つからないとはさらにその傷をえぐるような傷みが伴います。その傷みの中で響く声がします。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれをさがしているのか」。この声にマリアは応えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。一介の女性が「わたしが、あの方を引きとろう」という絶望を突き抜けた申し出。絶望は復活の光に刺し貫かれています。この申し出の中で、イエス・キリストは自らを証しされるのです。その生々しさは、思わずヘブライ語で「ラボニ」と口走ったマリアの態度に示されています。しかしまだ時は来てはおりません。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。マグダラのマリアが聞いた復活の主の委託が、マリア自らの新しい希望となって今なお恐怖に震える弟子たちへと希望を伝えるのです。
 理不尽に奪われていくこどもたちを含めた民間人の報に取り囲まれながら、わたしたちはなおも新しい年度を復活の主に定めます。祈って何になる、との声の中で、わたしたちはなおも弟子のもとに走りに走るマグダラのマリアの姿を仰ぎます。片や世の絶望と不安をもたらす報、片やキリストによるいのちの希望。どちらに信頼を置くべきか。わたしたちにはもう答えが出ているはずです。従来の経験の通じない、グレートリセットの声高まる今、福音を伝え、神の愛を証しせずして何といたしましょう。事の大小ではなく、今すでに主に用いられていることを喜びたいのです。

2022年4月8日金曜日

2022年4月10日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

説教=「わたしではなく、あなたのあゆみ」 
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 14 章 32~42 節. 
(新約聖書 92 頁). 

讃美= 136(1.2.4),301(1.4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 長らく暮らした街を木っ端微塵に破壊され、難民となった人の群れがいれば、指導者に幻滅し外国に逃れる人もいます。仮埋葬された家族の埋葬地を前に嘆く女性もいれば、親を失った戦災孤児もカメラのフレームの外にはいるはずです。イエス・キリストが「わたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語った群れの中には、そのような人々もいたかも知れません。身寄りのないこどもたちは、次々と斃れていくはずでありましたが、平時であればいらぬお節介焼きの人々が、血の繋がらないこどもから「お母さん」と呼ばれた、ただそれだけの理由で、生涯をかけてその子を育んでいくという話があります。しかしその子とともに生きる道を選んだことにより、見知らぬ国へとたどり着き、理解なき伴侶と別れ、公園を寝場所としながら昼間は働き、図書館で暖ををとる。学校に行くようになったこどもはその異様な姿から毎日いじめを受け、自死を考えるまでに追い詰められていく。そのような時に母親が「もう疲れた」と呟き泣き崩れる。その姿にこどもは同じく思い詰めたかといえばそうではなくて「お母さんも苦しんでいたんだ、わたしも無理しなくていいんだ」と、ともに抱き合って涙したという人の話を聞きました。わたしたちであれば「もう疲れた」という言葉に自分を責めてしまうはずです。しかしその人は「わたしも無理しなくていい」と不思議な安堵を覚えたというのです。
 目の前に迫る人々の憎悪。これから受けるであろう暴力と処刑を予期しながら、ただ祈りによってのみ正気と平静さを保ち続ける救い主。『マルコによる福音書』が描くキリストの姿は、誰にも顧みられない、見捨てられた人として描かれます。過酷な道に毅然として身を委ねていくのではなくて、その道を見通せるからこそ弟子たちに傍にいるようにと語り、「わたしは死ぬばかりに悲しい。離れずに、目を覚ましていなさい」と呟きます。そして「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と祈ります。この祈りからは、人の子イエスが心身ともに恐怖によって引き裂かれていく、そのさまがわたしたちにも痛みをもって伝わるところです。棕櫚の主日を迎えています。キリストに従う者は、時にキリストと同じように故なく嘲りを受け、キリストと同じように故なく自分の望む道を絶たれ、濡れ衣を着せられながら引き渡されます。そして謂れのない裁判を受け、そして一人孤独のうちに「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、命を絶たれていく。世にある人の想像を超えた苦難と嘆きが、人の子イエスの姿に凝縮されます。まさに「キリストと同じように」と呟くほかはありません。
 しかしこの「キリストと同じように」というところに、わたしたちの希望と平安、そして死にすら勝利する神の愛を確信する道が拓かれてまいります。わたしたちが礼拝を献げるその度に「キリストに根を下ろそう」と確かめ合うのはそのためでもあります。いったい、わたしたちは追い詰められるほど、力に頼り、道に立ち塞がる問題を排除しようと必死になり、足掻いてまいります。「目には目を、歯には歯を」に象徴される法典も、本来は憤りのあまり生じる過剰な報復を押さえ、弱者とされる人々を守るために定められました。しかし実際には「やられたらやり返せ」という報復原理にしかなり得ませんでした。イエス・キリストもまた「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたという意味では、わたしたちと寸分違わない弱さを恥じることなく身に宿しておられる様子を意味しています。しかし続く祈りからは、人間イエス自らの力ではなく、まさにキリストとして変えられていくさまが明らかになってまいります。それは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との言葉です。「わたしのあゆみではなく、あなたのあゆみが全うされますように」との祈りです。毅然とした姿ではないからこそ、わたしたちもまた「無理しなくていいんだ」と、キリストと交わりをともにする者として、弱さの淵にあってなお、神の愛を証しする器として用いられてまいります。キリストとつながっている者の特権は弱さの中にあります。
 本日は中高生進級祝福式を行います。不器用なわたしたちからすれば「大きくなったね」という言葉しか見つからないかもしれません。こどもたちも、もはやこどもではありません。だからこそ、大人の言葉や態度をこれまでとは異なる気持ちで感じていることでしょう。その目には強さだけでなく弱さも映っていることでしょう。だからこそわたしたち自ら、イエス・キリストがゲツセマネの祈りから立ちあがるその先を見つめたいと願うのです。十字架での死に勝利したイエス・キリストと、わたしたちのつながりは、世代を超えて神の愛の証しをそこかしこで輝かせます。





2022年4月1日金曜日

2022年4月3日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日はリモート礼拝となり、礼拝堂での対面礼拝はございません)

―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

リモート礼拝となります。

説教=「闇の中を進む光、救い主キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 10 章 32~38 節.
(新約聖書 82 頁).

讃美= 142(1.3.5),467(1.2),540. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 力ある者が力ない者を踏みにじる報せを毎日のように耳にするこのひと月。コロナ禍をきっかけにものづくりや人々の暮らしを支えてきた商店街が後を継ぐ者もなくシャッターを閉めていく。おそらくはひたむきに勤めてきたところの仕事に将来性を見出せず店や会社を閉じるところが、日毎に音を立てて崩れるこれまでの倣いの中で激増しています。その代わりに増えているのが株の投資やレアメタルの先物買取引。ある種のギャンブル性も伴うところもあってか、安易に手を出しては財産を失う人もいるとのこと。身から出た錆だと言ってしまえばそれまでですが、巻き込まれた家族親族にとっては本当に辛いことで、明日のことを思い煩うどころか今日一日をどうしようかと悩む人が粛々と増えています。核戦争の恐怖に人類をさらす指導者の采配一つで故郷を追われた人々の痛みを、今、路頭に迷う人々も、わたしたちも、ともに分かちあえるのならばまだしも、この場この時にあってなお憎しみが絶えないという話には立ち直れなくなるような悲しみを覚えます。同じ難民であったとしても人々から歓迎される人もいれば、国境に壁が設けられ決して受け入れられない民もいます。神の愛との関わりなしには人はどこまでも堕ちていく可能性をはらんでいる、罪ある者なのだとの言葉を、この混乱期に噛みしめます。
 おそらくそのような、どうしようもない人間の醜悪な部分を本日の聖書の箇所は、はっきり描きます。『マルコによる福音書』で、明らかにいのちが危ぶまれる、聖なる都エルサレムへと先頭に立って進むイエス・キリスト。これまで二度も自らの死を語り、それがどのような経緯でもたらされるのかを聞かされてきた弟子には恐怖以外の何もなかったことでしょう。「今わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。人の子イエスが世を歩まれた時代のイスラエルの民には、復活という救い主のあり方は、全てにわたって共有される考えでも、ありようでもありませんでした。例えば「サドカイ派」と呼ばれる、エルサレムの祭司を頂点とする、力ある人々には『創世記』から『申命記』までにいたる五つの書物、『律法(トーラー)』と呼ばれる書物がよりどころではありました。この五つの書物で描かれる物語では、復活はそのものとしては描かれてまいりません。アダムは長命を記されながらも死に、アブラハムも伴侶サライに先立たれながら葬られ、イサクも弔われ、ヤコブとヨセフはエジプトのしきたりに従って葬られます。イスラエルの民を奴隷の家から解放したモーセは後に続く世代のあゆみを見守りながら道半ばにして息をひきとってまいります。預言者の教えとして死者の復活は論じられますが、それを見た者は誰もおらず、従って弟子たちが、どこまで人の子イエスの語る復活を正面切って受けとめられたかは謎です。しかしそれでも恩師であるイエスが自らの死を予告するという尋常ならざる状況には震えが止まらなかったと思うのです。
 しかしその状況の中で弟子の醜悪さが際立つ箇所があります。それはゼベダイの子ヤコブとヨハネのやりとりです。メシアとして「栄光を受けるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と、あたかも遺産や遺品の整理で有利になる品物を得ようとするかのように、兄弟で、復活の後のキリストの身近に寄せてくれとすがります。「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われるのは、福音書の読み手であるわたしたちからすれば当然です。人の子イエスはこの問いに「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」ときっぱり返します。さらにこの自分勝手な申し出に弟子の間には憎しみが生まれます。その騒ぎを制するかのようにイエス・キリストは自らが十字架で処刑され、復活され、そして天に昇られた後に生まれるであろう交わりの根本原則を語ります。それは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆で仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」との教えです。そしてなおかつ「人の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」との、最底辺の奴隷の姿に身をやつすキリストに従う道を示しています。身を挺してキリストに従う道を示す姿をメディアで見聞きする時代となりました。いのちの勝利への確信なしにはこのような証しは不可能です。わたしたちも無関係で居られないからこそ、キリストに希望を仰ぎましょう。わたしたちはキリストに示されたいのちの輝きによって新たな道を備えられているのです。





2022年3月24日木曜日

2022年3月27日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日はリモート礼拝となり、礼拝堂での対面礼拝はございません)

 ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

リモート礼拝となります。


説教=「思いがけない出来事の中での助け」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 9 章 2~10 節.
(新約聖書 78 頁).

讃美= Ⅱ 177(1.3),Ⅱ 136(1.3),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  道端にはタンポポや清楚な青の映えるイヌノフグリが懸命に花咲こうとしています。天候の定まらない季節ではありますが、雨が地面を潤しいのちを育んでいる様子が分かります。繊細な花弁が春の風雨の中で立ち続けています。
 そのような季節ですから本格的に野山を散策し、登山にも挑戦したいとお考えの方もいるかもしれませんが、春山と申しますのは、冬山以上に遭難するリスクが高くなります。草木を潤す温かさは雪を溶かし、些細なことをきっかけにして雪崩となります。また天候が不規則となり霧や雲に巻かれてしまい、足下が見えなくなって崖から滑り落ちてしまいます。想定外の事柄が起きるほど、わたしたちは慌てふためいて我を見失います。平常心を保っていればまだしも、焦るほどに疲れは増し、判断力の低下を招きます。そうなりますと、本日の聖書の箇所で、自らの迫害と苦しみ、そして死と復活を語ったその日から数えて六日目にイエス・キリストがごく限られた弟子、すなわちペトロとヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登ったというその理由には、物わかりの悪い弟子に十字架へのあゆみを少しでも伝えようとの御旨があったのかもしれません。9章2節には単に「山に登った」とあるのではなく「高い山に登られた」と山の高さが強調されているからです。
 当然ながらこの時代、天気予報もなければ精密な地図、コンパスも登山靴もありません。さらには山そのものが人間にとっては不可侵の領域として特別な意味をもっていたことは『旧約聖書』の十戒を授かる場所、また追っ手から逃れて預言者が身を隠した場所でもあるホレブ山(シナイ山)に特別な意味が込められるところからも分かります。一度入れば二度と降りてこられないかも知れない危機の只中に弟子たちは置かれます。もちろん、人の子イエスとともにであります。別の言い方をすれば、この思いもしなかった過酷な環境の中に、イエスは弟子を招き入れたのかもしれません。それならば、主イエスの意図したところは何だったのでしょうか。
 もちろんそれは救い主とは何かを示すためであったでしょう。その姿は弟子が思い描いていた以上の輝きをもって迫るものでありました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。モーセはイエスの時代のユダヤ教に不可欠な正典である『律法(トーラー)』、エリヤもまた同じく『預言者(ネビイーム)』を示すとの見方もできます。しかしモーセもエリヤも『旧約聖書』の物語の中ではキリストとしての姿を現わしたイエスとはいわば「山仲間」の間柄だという見方も可能です。エジプトの奴隷の家から解き放たれて、本来はアブラハムの神に感謝すべきはずのイスラエルの民が、その境遇に不平不満を言わずにはおれなくなったとき、モーセは雲に覆われたホレブ山で十戒を授かりました。預言者エリヤは、富と力に溺れたイスラエルの民がアブラハムの神を顧みなくなったとき、人々に戒めに相応しい道を示し続けました。しかし彼は追っ手に狙われ、自らの死をも願いながらホレブ山に逃れる中で「神なき富と権力に跪かなかった七千の民のために」預言者としての働きを全うせよとの励ましをアブラハムの神より授かります。「鼻で息をする者」としての人間との関わりを超えて神が働きかける場としてのホレブ山。イエス・キリストはその連なりの中で自らを示しました。
 ただわたしたちも、また恐らく弟子もまた気になるところは、モーセが山から降りて、どのような道を辿ったのか、また預言者エリヤが山から降りて、やはりどのような道を辿ったのか、そしてイエス・キリストは山から降りて、どのような道を辿るのかという「その後のあゆみ」です。雲の中から響いた「これはわたしの愛する子。これに聞け」との言葉にあるとおり、三人の弟子は下山の後に人の子イエスに尋ねます。「エリヤは来たが、聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」。それがイエス・キリストの答えでした。モーセも同じように、イスラエルの民から理解されないどころか、人々が神との間に重ねた過ちのゆえに、神が約束した土地へと入るという願いは叶いませんでした。イエス・キリストもまた、モーセやエリヤの道を辿るかのように、いやその道以上の「茨の道」をあゆみ、世に神の愛を証しました。そして人々や弟子の傲慢さを打ち砕き、自ら十字架で苦しまれ、死にいたることを通して、人が強さを誇ろうとするほど、虐げられていく弱さに光を注がれ、その中にこそ、神が備え給ういのちの輝きをお示しになりました。予想外の中で味わう苦しみ。しかしその苦しみには必ず救いの手が添えられます。苦しみを味わうはずの弱さに、わたしたちは目を注ぎましょう。偽りの強さに憧れる時代は、今まさに過ぎようとしています。

2022年3月18日金曜日

2022年3月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「あなたの誤解が溶かされるとき」 
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 8 章 27~33 節.
(新約聖書 77 頁).

讃美= 354(1.3),262(1.3),542. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今も続くコロナ禍に伴う物価の上昇、名もないこどもたちのいのちが召される戦争の報せ、そして年度末の足下の事柄。どうしたものかとときにはうつむいて歩くうちにふと顔をあげますと、そこにはモクレンのつぼみが膨らんでいました。カレンダーをたどって季節の訪れを予測するというのも、ひとつの考え方かもしれませんが、やはりモクレンがふくらんでまいりますと、また春が訪れたとしみじみ感じ入ります。
 モクレンの花はわたしたちがふだん目にする他の花に較べて肉厚で、野鳥の餌にもなります。そして花が咲き、時が経つに連れて茶色に変色して散っていくのであります。花が散ればそのはかなさに胸を痛めるというのが世の倣い。けれども実際にモクレンが樹木全体として活力を増していくのは、花が散ってからです。そうなればはかなく感じる思いは誤解だったとも言えます。事実、夏のモクレンは花こそ咲きませんが、生い茂るその葉は強い日差しの中で一層その存在感を増していきます。
 本日の『聖書』の箇所では次の物語が記されます。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」。「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。「そこでイエスはお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」。『新共同訳』では「ペトロ、信仰を言い表す」とありますので、わたしたちはこの箇所を辿ってまいりますと、あたかも筆頭弟子ペトロが信仰を言い表したと読みとってしまうのですが、本当のところはどうだったのでしょうか。
 実は本日の聖書の箇所に続いての記事は「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあります。しかもそのことをはっきりとお話になったと、物語の書き手は念を押します。そのときにペトロがどのような振る舞いに及んだかと言えば、イエスをわきへ連れていき、いさめ始めた、とあります。そのとき「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」と続きます。この箇所から遡って考えますと、ペトロは確かに「あなたはメシアです」と答えはするものの、そこには大きな誤解があったようにも思えます。わたしたちが考えるところのキリストのあゆみとはかけ離れたところで理解されるメシアのイメージとは、多くの苦しみを受けることもなく、長老、祭司長、律法学者からも迎えられ、殺害されることもなく、イスラエルの民を救済するという、大勢の人々に共有されるメシアです。おそらくは当時のユダヤ教の一般的なメシアのイメージがそこにはあったのでしょうが、人の子イエスが語る救い主のあゆみとは全く異なっていました。福音書にあってペトロはイエスとの対話の中でいつもボタンの掛け違えと申しましょうか、ちぐはぐなやりとりをするのですが、本日の箇所ではちぐはぐどころか「サタン、引き下がれ、あなたは人間のことを思っている」と指摘されてしまうのです。それではサタンとはどのようなものでしょうか。それは人にものを独り占めさせるために、飢え渇きの中で石をパンに変えさせようとする、つまりいのちの価値を生産性のみでしか計らず、聖書を用いながら神を試させるという仕方で神への信頼を疑わせ、ついには世の全ての国々とその繁栄ぶりにのみ目を向けさせる者であり、また言葉だとして理解できるでしょう。ペトロはイエス・キリストの「いさめ」によって、このような誘惑と誤解から身を遠ざけることが辛うじてこの場ではできたと言えます。
 疫病、戦争の報せ、そして木曜日には東日本大震災の記憶も生々しい地域で起きた震度6の地震。人は不安に駆られ、また煽られますと、自分の将来のみならず、わが子のことや家族をめぐってどうしたものかと心細くなります。当然のことです。しかしその当然の生活態度の中で、わたしたちはいつの間にか鼻で息をする者のみ、人間の力や噂ばかりを頼ってはいないでしょうか。隣人にも誤解をしてはいないでしょうか。誤解されてはいないでしょうか。そのような猜疑心を、イエス・キリストはいのちの息吹をもって追い払ってくださります。そして今ある私達のありようとよしとするために、十字架のあゆみを重ねていかれます。キリストの身体としての教会を育んでまいりましょう。


2022年3月10日木曜日

2022年3月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―受難節第2主日礼拝―


説教=「ただ赦しあえるように祈る」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 3 章 20~27 節.
(新約聖書 66 頁).

讃美= 452(1.3),519(1.3),542. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  2月24日に始まったロシア・ウクライナ戦争は、兄弟ともいえる二つの民が干戈を交えるにいたり、プーチン大統領は核兵器の使用を仄めかし原子力発電所を攻撃するなど国際条約と次々と破る中、あたかも21世紀に再現された「第二次世界大戦」が報道される毎に、わたしたちは胸を痛め主の平安を祈るほかありません。ウクライナのゼレンスキー大統領は東欧ユダヤ人、アシュケナジームと呼ばれ親戚の多くをナチスの絶滅収容所で失い、父親はソ連軍の兵士として従軍した系譜に立ちます。ウクライナ語とロシア語は近い関係にあり意思疎通も難しくはありません。ですから中にはこの戦争で家族が分断され敵味方に分かれてしまう悲劇に見舞われる方もおり、欧州諸国は難民の受け入れに全力を注いでいます。
 しかし一方でロシア国内でも亀裂が生じ始めています。契機となっているのがメディア。概してテレビに情報を依存する人ほどプーチン支持者が多いと言われています。ロシア国内のテレビのニュースではウクライナの様子すら滅多に報道されません。他方でSNSでは次々と情報が入ってきます。ロシア国外に暮らす人も同様です。情報を手に入れる媒体に応じて、国際社会に核兵器の使用可能性を公言したプーチンを支持する側と戦争反対を叫ぶ側に分断される事態が起きています。力や圧力による支配は一見強固に見えても思いがけず瓦解する可能性を常にはらんでいます。
 本日の『聖書』の箇所では人の子イエスをめぐる親族のありようが描かれます。先ほど述べた分断とは異なるところは、これは国家による分断ではない、というところです。主イエスが12人の弟子を選んだ後に記されるのは「群衆が集まり、一同は食する暇もないほどだった」。『マルコによる福音書』ではこれまで一貫して人の子イエスの癒しの物語が記されてきました。したがって名もなき民の間にはイエスこそ救い主だ、神の子だとの評判が立ったことでしょう。しかし同時にそのような評判が立つと困る者も現れます。それはこれまで人の子イエスが歩んできた道を追いかけてきた人々の態度に眉をひそめる、既成秩序から成るところの律法学者やファリサイ派の一部、またヘロデ王の息子たちのとりまきです。わざわざエルサレムからガリラヤまで来て「気が変になった男」「悪霊の力で悪霊を追い出す」との噂を流したのはこのようなイエス・キリストの歩みに反感を覚える人々だったかもしれません。すさまじい情報戦です。それでは人の子イエスの家族はどの説に与したのでしょう。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえにきた。『あの男は気が変になっている』と言われていたから」。残念ながら親族は人の子イエスの働きに理解を示し受け入れるどころか、身柄を拘束しにやってきました。血は水よりも濃いとわたしたちは口にしますが、福音書の世界では必ずしもその言葉は当てはまりません。暮らしの秩序を乱す者として、身内からイエスは縛られ身動きを封じられようとするのです。そのただ中でイエス・キリストは語ります。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成りたたない。家が内輪で争えば、その家は成りたたない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず滅びてしまう」。主にある交わりを分断しようとの試みは、返す刀で自らの交わりをも分断し、ばらばらに解体してしまうのです。そこに待っているのは自縄自縛の孤独という名の底なし沼です。
 それではイエス・キリストはどこに神の国のモデルとなる交わりを見出したというのでしょうか。それは自らの母親と兄弟姉妹、つまり血縁者が宣教の旅に出たイエスを捜し求める中、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」との宣言するところにあります。イエス・キリストは決して家族の関わりを否定しません。むしろその愛情を徹底させて、血縁のない人々の群れもまた、自らの名によって孤独を感じる必要のない交わりを授け、その交わりに喜びを広めていく力を注がれていくのです。それはいつか必ず、自らを縛りあげるところの身内の者にも伝わるに違いありません。『創世記』にある「アダムの系図」では、世にあるすべての人々はアダムに源をもつ家族として描かれます。後にイスラエルの民と敵対する人々でさえその系図に属します。アダムとは固有の名であると同時に「人」をも意味します。係累を絶っても絶たれても、身内に諍いがあろうとも、神の愛は必ずその諍いにうち勝ち勝利します。なぜならそこには赦しがあるからです。イエス・キリストは自ら痛みと苦しみを担い、わたしたちの家族や世の民の争いの壁を取り除き、和解させるお方です。神の平和を祈りましょう。