2022年4月1日金曜日

2022年4月3日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日はリモート礼拝となり、礼拝堂での対面礼拝はございません)

―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

リモート礼拝となります。

説教=「闇の中を進む光、救い主キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 10 章 32~38 節.
(新約聖書 82 頁).

讃美= 142(1.3.5),467(1.2),540. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 力ある者が力ない者を踏みにじる報せを毎日のように耳にするこのひと月。コロナ禍をきっかけにものづくりや人々の暮らしを支えてきた商店街が後を継ぐ者もなくシャッターを閉めていく。おそらくはひたむきに勤めてきたところの仕事に将来性を見出せず店や会社を閉じるところが、日毎に音を立てて崩れるこれまでの倣いの中で激増しています。その代わりに増えているのが株の投資やレアメタルの先物買取引。ある種のギャンブル性も伴うところもあってか、安易に手を出しては財産を失う人もいるとのこと。身から出た錆だと言ってしまえばそれまでですが、巻き込まれた家族親族にとっては本当に辛いことで、明日のことを思い煩うどころか今日一日をどうしようかと悩む人が粛々と増えています。核戦争の恐怖に人類をさらす指導者の采配一つで故郷を追われた人々の痛みを、今、路頭に迷う人々も、わたしたちも、ともに分かちあえるのならばまだしも、この場この時にあってなお憎しみが絶えないという話には立ち直れなくなるような悲しみを覚えます。同じ難民であったとしても人々から歓迎される人もいれば、国境に壁が設けられ決して受け入れられない民もいます。神の愛との関わりなしには人はどこまでも堕ちていく可能性をはらんでいる、罪ある者なのだとの言葉を、この混乱期に噛みしめます。
 おそらくそのような、どうしようもない人間の醜悪な部分を本日の聖書の箇所は、はっきり描きます。『マルコによる福音書』で、明らかにいのちが危ぶまれる、聖なる都エルサレムへと先頭に立って進むイエス・キリスト。これまで二度も自らの死を語り、それがどのような経緯でもたらされるのかを聞かされてきた弟子には恐怖以外の何もなかったことでしょう。「今わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。人の子イエスが世を歩まれた時代のイスラエルの民には、復活という救い主のあり方は、全てにわたって共有される考えでも、ありようでもありませんでした。例えば「サドカイ派」と呼ばれる、エルサレムの祭司を頂点とする、力ある人々には『創世記』から『申命記』までにいたる五つの書物、『律法(トーラー)』と呼ばれる書物がよりどころではありました。この五つの書物で描かれる物語では、復活はそのものとしては描かれてまいりません。アダムは長命を記されながらも死に、アブラハムも伴侶サライに先立たれながら葬られ、イサクも弔われ、ヤコブとヨセフはエジプトのしきたりに従って葬られます。イスラエルの民を奴隷の家から解放したモーセは後に続く世代のあゆみを見守りながら道半ばにして息をひきとってまいります。預言者の教えとして死者の復活は論じられますが、それを見た者は誰もおらず、従って弟子たちが、どこまで人の子イエスの語る復活を正面切って受けとめられたかは謎です。しかしそれでも恩師であるイエスが自らの死を予告するという尋常ならざる状況には震えが止まらなかったと思うのです。
 しかしその状況の中で弟子の醜悪さが際立つ箇所があります。それはゼベダイの子ヤコブとヨハネのやりとりです。メシアとして「栄光を受けるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と、あたかも遺産や遺品の整理で有利になる品物を得ようとするかのように、兄弟で、復活の後のキリストの身近に寄せてくれとすがります。「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われるのは、福音書の読み手であるわたしたちからすれば当然です。人の子イエスはこの問いに「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」ときっぱり返します。さらにこの自分勝手な申し出に弟子の間には憎しみが生まれます。その騒ぎを制するかのようにイエス・キリストは自らが十字架で処刑され、復活され、そして天に昇られた後に生まれるであろう交わりの根本原則を語ります。それは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆で仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」との教えです。そしてなおかつ「人の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」との、最底辺の奴隷の姿に身をやつすキリストに従う道を示しています。身を挺してキリストに従う道を示す姿をメディアで見聞きする時代となりました。いのちの勝利への確信なしにはこのような証しは不可能です。わたしたちも無関係で居られないからこそ、キリストに希望を仰ぎましょう。わたしたちはキリストに示されたいのちの輝きによって新たな道を備えられているのです。