時間:10時30分~
説教=「わたしではなく、あなたのあゆみ」
稲山聖修牧師
聖書=マルコによる福音書 14 章 32~42 節.
(新約聖書 92 頁).
讃美= 136(1.2.4),301(1.4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
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又はタップしてください。
【説教要旨】
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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長らく暮らした街を木っ端微塵に破壊され、難民となった人の群れがいれば、指導者に幻滅し外国に逃れる人もいます。仮埋葬された家族の埋葬地を前に嘆く女性もいれば、親を失った戦災孤児もカメラのフレームの外にはいるはずです。イエス・キリストが「わたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語った群れの中には、そのような人々もいたかも知れません。身寄りのないこどもたちは、次々と斃れていくはずでありましたが、平時であればいらぬお節介焼きの人々が、血の繋がらないこどもから「お母さん」と呼ばれた、ただそれだけの理由で、生涯をかけてその子を育んでいくという話があります。しかしその子とともに生きる道を選んだことにより、見知らぬ国へとたどり着き、理解なき伴侶と別れ、公園を寝場所としながら昼間は働き、図書館で暖ををとる。学校に行くようになったこどもはその異様な姿から毎日いじめを受け、自死を考えるまでに追い詰められていく。そのような時に母親が「もう疲れた」と呟き泣き崩れる。その姿にこどもは同じく思い詰めたかといえばそうではなくて「お母さんも苦しんでいたんだ、わたしも無理しなくていいんだ」と、ともに抱き合って涙したという人の話を聞きました。わたしたちであれば「もう疲れた」という言葉に自分を責めてしまうはずです。しかしその人は「わたしも無理しなくていい」と不思議な安堵を覚えたというのです。
目の前に迫る人々の憎悪。これから受けるであろう暴力と処刑を予期しながら、ただ祈りによってのみ正気と平静さを保ち続ける救い主。『マルコによる福音書』が描くキリストの姿は、誰にも顧みられない、見捨てられた人として描かれます。過酷な道に毅然として身を委ねていくのではなくて、その道を見通せるからこそ弟子たちに傍にいるようにと語り、「わたしは死ぬばかりに悲しい。離れずに、目を覚ましていなさい」と呟きます。そして「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と祈ります。この祈りからは、人の子イエスが心身ともに恐怖によって引き裂かれていく、そのさまがわたしたちにも痛みをもって伝わるところです。棕櫚の主日を迎えています。キリストに従う者は、時にキリストと同じように故なく嘲りを受け、キリストと同じように故なく自分の望む道を絶たれ、濡れ衣を着せられながら引き渡されます。そして謂れのない裁判を受け、そして一人孤独のうちに「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、命を絶たれていく。世にある人の想像を超えた苦難と嘆きが、人の子イエスの姿に凝縮されます。まさに「キリストと同じように」と呟くほかはありません。
しかしこの「キリストと同じように」というところに、わたしたちの希望と平安、そして死にすら勝利する神の愛を確信する道が拓かれてまいります。わたしたちが礼拝を献げるその度に「キリストに根を下ろそう」と確かめ合うのはそのためでもあります。いったい、わたしたちは追い詰められるほど、力に頼り、道に立ち塞がる問題を排除しようと必死になり、足掻いてまいります。「目には目を、歯には歯を」に象徴される法典も、本来は憤りのあまり生じる過剰な報復を押さえ、弱者とされる人々を守るために定められました。しかし実際には「やられたらやり返せ」という報復原理にしかなり得ませんでした。イエス・キリストもまた「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたという意味では、わたしたちと寸分違わない弱さを恥じることなく身に宿しておられる様子を意味しています。しかし続く祈りからは、人間イエス自らの力ではなく、まさにキリストとして変えられていくさまが明らかになってまいります。それは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との言葉です。「わたしのあゆみではなく、あなたのあゆみが全うされますように」との祈りです。毅然とした姿ではないからこそ、わたしたちもまた「無理しなくていいんだ」と、キリストと交わりをともにする者として、弱さの淵にあってなお、神の愛を証しする器として用いられてまいります。キリストとつながっている者の特権は弱さの中にあります。
本日は中高生進級祝福式を行います。不器用なわたしたちからすれば「大きくなったね」という言葉しか見つからないかもしれません。こどもたちも、もはやこどもではありません。だからこそ、大人の言葉や態度をこれまでとは異なる気持ちで感じていることでしょう。その目には強さだけでなく弱さも映っていることでしょう。だからこそわたしたち自ら、イエス・キリストがゲツセマネの祈りから立ちあがるその先を見つめたいと願うのです。十字架での死に勝利したイエス・キリストと、わたしたちのつながりは、世代を超えて神の愛の証しをそこかしこで輝かせます。