2022年4月22日金曜日

2022年4月24日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「あなたがたに平和があるように」
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 20 章 24~29 節.
(新約聖書210頁). 

讃美= 243(1.2.4),151,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  25年ほど前に世の中を席巻した音源媒体にコンパクトディスクがありました。レーザー光で金属箔につけられたデジタル信号を読み込んで音を再生するというもので、発売された当時は劣化もしない理想的な録音媒体としてPRされました。カセットテープが販売されたときも、オープンリール形式の磁気テープ式録音に較べてその手軽さがもてはやされましたが、保存する温度や湿度でテープが伸びてしまったり絡まったりすることもありましたので、次第に磁気媒体から光学媒体に代わってまいりました。
 ただコンパクトディスクも問題がなかったかといえばそうではありませんでした。理論的には半永久的に音源が記録できるはずでしたが、実際にデジタル信号を記録した金属箔は殆どがアルミニウム。つまり30年ほど絶ちますとアルミニウムが錆びて音飛びが激しくなって音源が再生できなくなります。ゴールドでは永久保存が出来ますがそれはあまりにも高価です。その後デジタル方面へ進化する音源もないわけではありませんが、時代の変化の中で変わらない音源があります。それはレコード。今でもレコード針を販売し続けている会社は倒産せずに残っています。レコードの音は生演奏を正確に記録したデジタル音源とは異なった趣があります。柔らかな響きがあり、とげとげしいところがありません。レコード盤に刻まれた傷をなぞり、針はその凹凸を受けとめながら音を紡いでいきます。
 傷をなぞってさまざまな名曲が再生されていく。アナログという点では一歩遅れています。そしてそれは本日の聖書の箇所の人の子イエスの弟子トマスにも重なります。なぜならトマスは甦られたイエス・キリストとの弟子たちの交わりに一人出遅れてしまったからです。トマスは決してイエス・キリストを信頼しなかったからかような所作に及んだのではありません。十字架に掛けられる前、イエスが重い病に罹っているラザロに出会うためにエルサレムの近くの村ベタニアを訪ねようとするときには、身の危険を感じて尻込みする他の弟子たちを差し置いて「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とまで語った人ではあります。しかしそこまで情熱的であったが故にこそ、人の子イエスが十字架につけられて殺害されてしまったという報せに深い絶望と幻滅を覚えるほかなかったことでしょう。
 「神様っているんでしょうかね」と問われる機会が増えました。30年前の湾岸戦争ではテレビで戦争が中継されました。ウクライナ戦争ではデジタル技術の結晶であるスマートフォンで戦争が中継されています。カメラが切り替われば次から次へと悲惨な画面が映ります。そのせいで気持ちがくたびれて、罪責感から身動きがとれなくなってしまう人も増えています。けれどもよく見れば同じ画像が何度も用いられ、別の場所の出来事とないまぜになっている報道にも気づかされます。戦争に情報戦はつきものですが、特に日本の大手マスメディアによる動画の使い回しには注意が必要です。しかし。それでも「神様っているんでしょうかね」という問いそのものの重さは変わりません。この問いかけは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったトマスの問いかけにも、度重なる悲惨な報道により「神様っているんでしょうかね」「復活なんてあるんでしょうかね」と問わずにはおれない言葉は重なります。
 そのようなトマスの態度をイエス・キリストは否定されませんでした。八日後にトマスと出会うイエス・キリスト。イエスはトマスを拒絶するどころかその指をご自身の傷に重ね、その手を脇腹の槍に刺された傷跡に押し込もうといたします。目の前の主イエスは、トマスのために誰かが編集したり作り出したりしたものではありません。文字通りトマスがその傷をなぞることによって、復活という出来事が何度も何度も轟いていくのです。それが集う弟子たちの間で響き渡る「あなたたちに平和があるように」との宣言に繋がっていきます。
 トマスのように、自らが疑ってかかる課題に正面切って臨む人はまれです。しかしわたしたちはさらに、わたしたちの身近なところで傷つき悲しんでいるこどもたちや家族、友人を知っています。その中に戦火を逃れてきた難民の方々がいればなおのことです。肌や瞳の色を問わず、言葉を問わず、身体の特性を問わずに、できる限りで構いませんから、手を差し伸べて触れてみてはいかがでしょうか。それはとりもなおさず、復活されたイエス・キリストの傷に触れるわざに繋がり、ひいては霧のような憂いと疑いを晴らす交わりへと繋がります。復活のイエスはトマスに、神自らの誠実さをお示しになりました。その神の誠実さに、わたしたちもキリストを通して触れているのです。