2022年3月18日金曜日

2022年3月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「あなたの誤解が溶かされるとき」 
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 8 章 27~33 節.
(新約聖書 77 頁).

讃美= 354(1.3),262(1.3),542. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今も続くコロナ禍に伴う物価の上昇、名もないこどもたちのいのちが召される戦争の報せ、そして年度末の足下の事柄。どうしたものかとときにはうつむいて歩くうちにふと顔をあげますと、そこにはモクレンのつぼみが膨らんでいました。カレンダーをたどって季節の訪れを予測するというのも、ひとつの考え方かもしれませんが、やはりモクレンがふくらんでまいりますと、また春が訪れたとしみじみ感じ入ります。
 モクレンの花はわたしたちがふだん目にする他の花に較べて肉厚で、野鳥の餌にもなります。そして花が咲き、時が経つに連れて茶色に変色して散っていくのであります。花が散ればそのはかなさに胸を痛めるというのが世の倣い。けれども実際にモクレンが樹木全体として活力を増していくのは、花が散ってからです。そうなればはかなく感じる思いは誤解だったとも言えます。事実、夏のモクレンは花こそ咲きませんが、生い茂るその葉は強い日差しの中で一層その存在感を増していきます。
 本日の『聖書』の箇所では次の物語が記されます。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」。「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。「そこでイエスはお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」。『新共同訳』では「ペトロ、信仰を言い表す」とありますので、わたしたちはこの箇所を辿ってまいりますと、あたかも筆頭弟子ペトロが信仰を言い表したと読みとってしまうのですが、本当のところはどうだったのでしょうか。
 実は本日の聖書の箇所に続いての記事は「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあります。しかもそのことをはっきりとお話になったと、物語の書き手は念を押します。そのときにペトロがどのような振る舞いに及んだかと言えば、イエスをわきへ連れていき、いさめ始めた、とあります。そのとき「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」と続きます。この箇所から遡って考えますと、ペトロは確かに「あなたはメシアです」と答えはするものの、そこには大きな誤解があったようにも思えます。わたしたちが考えるところのキリストのあゆみとはかけ離れたところで理解されるメシアのイメージとは、多くの苦しみを受けることもなく、長老、祭司長、律法学者からも迎えられ、殺害されることもなく、イスラエルの民を救済するという、大勢の人々に共有されるメシアです。おそらくは当時のユダヤ教の一般的なメシアのイメージがそこにはあったのでしょうが、人の子イエスが語る救い主のあゆみとは全く異なっていました。福音書にあってペトロはイエスとの対話の中でいつもボタンの掛け違えと申しましょうか、ちぐはぐなやりとりをするのですが、本日の箇所ではちぐはぐどころか「サタン、引き下がれ、あなたは人間のことを思っている」と指摘されてしまうのです。それではサタンとはどのようなものでしょうか。それは人にものを独り占めさせるために、飢え渇きの中で石をパンに変えさせようとする、つまりいのちの価値を生産性のみでしか計らず、聖書を用いながら神を試させるという仕方で神への信頼を疑わせ、ついには世の全ての国々とその繁栄ぶりにのみ目を向けさせる者であり、また言葉だとして理解できるでしょう。ペトロはイエス・キリストの「いさめ」によって、このような誘惑と誤解から身を遠ざけることが辛うじてこの場ではできたと言えます。
 疫病、戦争の報せ、そして木曜日には東日本大震災の記憶も生々しい地域で起きた震度6の地震。人は不安に駆られ、また煽られますと、自分の将来のみならず、わが子のことや家族をめぐってどうしたものかと心細くなります。当然のことです。しかしその当然の生活態度の中で、わたしたちはいつの間にか鼻で息をする者のみ、人間の力や噂ばかりを頼ってはいないでしょうか。隣人にも誤解をしてはいないでしょうか。誤解されてはいないでしょうか。そのような猜疑心を、イエス・キリストはいのちの息吹をもって追い払ってくださります。そして今ある私達のありようとよしとするために、十字架のあゆみを重ねていかれます。キリストの身体としての教会を育んでまいりましょう。