―受難節第1主日礼拝―
稲山聖修牧師
聖書=マルコによる福音書 1 章 12~15 節.
(新約聖書 61 頁).
讃美= 30(1.3),495(1.3),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
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ローマカトリック教会では、『聖書』に劣らず教会の伝統が重きをなし、そこにあるさまざまな言い伝えが尊ばれています。これは「聖なる伝承」を意味する「聖伝」というのですが、その言い伝えと併せて「聖い人」すなわち教会のために格別な働きを全うした人として権威づけられ、教会が続く間、敬われる人々の物語が虚実ない交ぜにされながらも現われます。パウロもペトロも聖パウロ、聖ペトロとして称されます。さらに『聖書』以外の言い伝えもミックスされて聖ゲオルギオス、という聖人も現われます。聖ジョージや聖ゲオルク、聖ゲオルギーとも呼ばれます。騎士の鎧に身を包み、ドラゴン、すなわち龍を成敗している具合で描かれます。槍を突き立てられているドラゴンは「天地創造物語」で描かれる蛇の化身として邪悪さを示すとの言い伝えです。
しかし甲冑に身を固め、槍を突き立てることで邪悪な言動は果たして退散するのでしょうか。距離を置いて考えれば、邪悪だとされたドラゴンもまた、神に創造されたという視点からはやはり尊いいのちを授かっています。このような鬼退治や怪物成敗の物語は、いとも簡単に異文化や異なる言語や暮らし向きにある人々を排除する意味も持ちかねません。ですからわたしたちには一定の距離が必要になります。
その距離は何より今朝の『マルコによる福音書』の箇所にも描かれています。『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』に記されるところの、荒れ野で悪魔から人の子イエスが誘惑を受けるという物語に較べて実に描写があっさりとしています。むしろ力点がかかるのは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との言葉。人の子イエスは神の霊に送り出されて荒れ野へとおもむき、四〇日の間そこに留まったとしか記されません。サタンから誘惑を受けたが、それがどのような誘惑なのかは記されません。その間「野獣もともにいた」とありますが、天使たちが人の子イエスに仕えていた、とあります。これが後に『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』では「石をパンに変えよ」「高いところから飛び降りて神を試せ」「わたしを伏し拝めば全ての国々の権力と繁栄を与える」との悪魔の誘惑の物語へと内容が広がります。あろうことか『聖書』を悪魔は用いて誘惑しますが、イエス・キリストは神との関係の中で『聖書』の言葉を解き明しながら、全ての誘惑に勝利します。決して槍や剣を用いて悪魔退治をするのではなく、悪魔自らが離れていくという仕方で物語は節目を迎えるのです。イエス・キリストが用いたのは「神の正しさ」であり、人が思いのままに操れるような歪んだ正義ではなかったという違いが、本日の箇所を踏まえて受け継がれていくのです。だからこそ、荒れ野にあっても、野獣とともにありながら、天使となった、いや、天使とされた人々との交わりがもたらされるという、イエス・キリストを軸とした野獣と天使の交わりがすでに荒れ野で育まれているのにお気づきでしょうか。サタンや悪魔を排除するのでも、野獣を滅ぼすのでもなく、いつの間にか全てのいのちがともに青草を食むという、所謂「殺生」なくては生きてはいけないという軛から解放された、「天地創造」のいのちの交わりが輝いています。それは世の終わりに約束された「神の国の現れ」の始まりでもあります。
主イエスが送り出された荒れ野とは、そのものとしてはわたしたちが今暮らしている生活の場からはかけ離れているかも知れません。しかしわたしたちの暮らしがこれからどうなるかは、その実、誰にも分かりません。イエス・キリストはそのようなわたしたちに、たとえ人生の荒れ野にあったとしても、いのちの交わりをつなぐことができるとお示しになりました。荒れ野に暮らすいきものの中には、夜明けのころ、身体についた滴を舐めていのちをつなぐ群れがいます。人間の力では万策をもってしても、そのような環境を設けられません。荒れ野はわたしたちが考えるよりも、ずっと豊かにいのちを養う場であることを、わたしたちは知らなさすぎるのです。わたしたちが「悪よりお救いください」と神に訴え、悪魔が荒れ野で示した安易な問題解決の誘惑に目を遣らず、世の只中にありながら、世に勝利し給うイエス・キリストを見つめているならば、必ず時に適った智恵が授けられます。大声で呼ばわり、甲冑の重さで押し潰されそうになり、槍で他のいのちを害するというありかたでは授かることのできない智恵。それは神がともにいてくださることで、わたしたちも、時に葛藤しつつも、ともなるあゆみを可能とする道を拓きます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。荒れ野から湖畔に暮らす人々へと、そして癒しを必要とする人々、エルサレムで世の力に依り頼む人々へと向けられた声は、今もわたしたちのいのちを伸びやかにするのです。