2025年4月16日水曜日

2025年4月18日(金曜日) 夜 受難日礼拝 説教

―受難日礼拝―

時間:午後7時00分~

場所:泉北ニュータウン教会 カフェテリア

  

説教=「アリマタヤのヨセフの勇気」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』 15章 42~47節

讃美歌=136番 142番

礼拝当日、午後7時より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人の子イエスは社会のどん底で苦しむ人々を癒し、その苦しみが当然だと諦めるほかなかった人々を励まし、傷みを分かちあい、満たされる喜びをともにし、ユダヤ教徒・異邦の民の垣根を越えて主なる神の愛を、全身をもって証しされました。そしてその称賛の声が広まるほど世の力ある者たちはそのわざを危険視し、濡れ衣を着せて殺害を試み、そしてその計画は表向き成功を収めます。つまりイエス・キリストは一人の犯罪人として処理され、十字架で殺害されます。今宵の受難日礼拝はその抜き差しならぬ苦しみと痛みが誰のためであったのかを確かめるために執り行われます。

 苦難の頂点の象徴でもある十字架での死と、いのちの輝きに満ちた救い主としての復活の出来事。しかしわたしたちはこの十字架での死と復活の光の間には葬りのわざがあるのだとの福音書の記事を忘れがちです。この弔いにあたって福音書の書き手は初めて「アリマタヤのヨセフ」という人物を描きます。この人は『マルコによる福音書』では「アリマタヤ出身で身分の高い議員」、『マタイによる福音書』では「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ、イエスの弟子」、『ルカによる福音書』では「議員であり、善良な正しい人、同僚の決議や行動には同意しなかった」、『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と様々に解説されますが、いずれにせよ人の子イエスと親しい、その時代の相応の地位にいた人物だといえます。イエスの時代に近づく福音書の物語ほど、このヨセフの誠実な態度が描かれます。

 とくに本日の箇所では「この人も神の国を待ち望んでいた」とあるだけでなく、「勇気を出してピラトのところへ行き」「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」と記されています。この様子をわたしたちは祈りの中で思い浮かべたいところです。

 人の子イエスの亡骸は、荊の冠を被せられ、幾度も鞭打たれただけではなく手足を釘打たれて打撲と内臓の機能不全、全身から出血したままで放置されていました。しかも槍を身体に刺されてその死が確認されたことから、ほぼ身体は原型を留めていなかった可能性すらあります。人から言われなければこの人がイエスと分からないほど痛めつけられた遺体です。十字架刑は国家転覆罪をはじめ極めて悪質な死刑囚にのみ用いられるところから、もしアリマタヤのヨセフがファリサイ派の律法学者であれば自ら死刑囚イエスとの関係を公言しているようなもので、自らの立場だけでなく、仲間の律法学者からも「あの男の仲間」として訴追される恐れがあります。現代でも死刑を経た遺体が家族や身内からも異なる墓に葬られるのを常とされるのが当然です。

 さらには人の子イエスの処刑はローマ帝国の名の下で執行され、本来なら晒されるところです。ですから遺体の引き取りは総督ピラトのもとへ直々に願い出なければ不可能です。十二弟子はもはや姿を消しました。ファリサイ派の律法学者アリマタヤのヨセフだけが恐らくは兵卒や下役とともにイエスの亡骸を十字架から引き剥がし、手足に打たれた釘を抜き、亜麻布を巻いて遺体の姿を整えて、準備させた墓へと納めたのかもしれません。救い主がこのようなありさまになろうとは、当時のユダヤ教徒には到底考えられませんでした。だからこそアリマタヤのヨセフには社会的地位もいのちの危機もこの亡骸を前にしてはもはやどうでもよいものだと映っていたのかもしれません。ヨセフはイエス・キリストにすべてを賭けました。洗礼者ヨハネがそうであったように、この人こそ救い主であるとの確信あればこそ、です。

 さてイエス・キリストが葬られているあいだを「使徒信条」ではどのように表現しているでしょうか。それは「陰府にくだり」とあります。死後の世界について『旧約聖書』は神の国の訪れまで死者の亡骸は地の底で眠りについたままです。ギリシア語で描かれた世界には死後には死者の世界、天国には天の国があります。この陰府がわたしたちの文化でいう地獄であったらいかがでしょう。欧米文化でいう煉獄や氷で閉ざされた地獄であればどうでしょう。復活の出来事にいたるまでの三日の間、イエス・キリストは本来ならわたしたちが赴くべき阿鼻叫喚の場へと、まさしくその場に相応しい傷ついた身体とともに降られたこととなります。本来ならばわたしたちが永遠の炎によって焼かれるはずの場へとイエス・キリストは赴かれ、そして復活の備えをされます。イエスの両脇で十字架に架けられた強盗たちも、この場で救いに与るはずです。あらゆる絶望の闇を打ち破った神の愛の勝利がヨセフの行動を裏づけています。かの時の人々とともに祈りつつ復活の時をわたしたちも待ちましょう。

2025年4月10日木曜日

2025年 4月13日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「自分を救わなかった人の子イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』27章32~44節
(新共同訳聖書 57ページ)

讃美=21-306.(Ⅱ177)
Ⅱ.-182.21-24(Ⅰ539).

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 地中海に面した北アフリカ、現在はリビアの領内の一部を指すキレネ。現在ではキレナイカという名で知られています。地中海を北上すればギリシアやイタリア半島がありますが、多くの遺跡がありこの時代としてはかなり栄えた町であったかもしれません。この地域出身のユダヤ人シモンは海路・陸路を伝ってようやく念願かなってエルサレムへと過越祭を詣でに来たはずです。しかしキレネ人シモンが神殿へと続く沿道で目のあたりにしたのは、意味も訳も皆目分からずこれから十字の杭に打ちつけられて処刑されるところの、「ユダヤ人の王」と刻んだ板で罪状を告げられている人の子イエスでした。沿道には鞭打たれ傷だらけになったその人を囃したてる人々が人垣を作って口々に罵っています。旅人シモンにはこの様子は全く異様に映りますが、沿道の人々は体のよい見世物とばかりに囃し立てるばかりです。そして恐ろしいことにその様尋常ではない人々を制していたローマの兵士は、茫然とするシモンにイエスの背負う杭を「ともに背負うように」とばかりに無理やり担がせます。人の子イエスの十字架刑ほど不条理なものはないと感じるのですが、このシモンはそれ以上に驚愕と絶望を憶えたことでしょう。イエスの弟子はみな逃げました。見知らぬ傷だらけで無力な、それこそ苦しみのあまり悪態をつくなど一切ない死刑囚とあゆむこととなったのです。シモンのあゆみはエルサレムの神殿とは正反対の処刑場に到着し、そこでようやく解放されるのです。シモンにも立ち入れない一線がその先にはあります。

 それではその後にキレネ人シモンの五感に飛びこんできたのは何だったのでしょうか。それは見るも無惨な人の子イエスの姿とその体臭です。掲げられた罪状書を見なければその顔の表情すら分かりません。荒い呼吸のなか何も言わずに血と汗にまみれた木材を担いで運んでいるのです。幾度もいくども躓く姿にシモンは心痛を憶えずにはおれなかったことでしょう。それだけではありません。「ゴルゴダ:髑髏」と呼ばれる刑場に到着するや本来は苦痛を麻痺させる薬草を溶かし込んだ薬を服用させられます。しかし人の子イエスはそれを拒否します。訳も分からず処刑用の木材を担がされた出来事こそ、キレネ人シモンとイエス・キリストとの出会いでした。
それは人の子イエスよりも先に一人は右の、もう一人は左の十字架につけられた強盗の言動でした。両隣にはゼベダイの息子ではなく強盗がいたのですが、この二人が人の子イエスの両隣から罵るには「神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い」との声でした。そしてこの強盗の声と人の子イエスを罵る祭司長や律法学者、神殿の長老の声がともにイエスを侮辱していたのです。キレネ人シモンにはこれも衝撃的な出来事でした。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りてこい」。シモンには、悪人とは明らかに異なるこの人の子に、強盗の罵りと同じ言葉を、本来ならば尊敬に値するべき祭司長や律法学者、それに神殿の長老たちが浴びせている光景に衝撃を憶えたことでしょう。決してこのような場面は過越の祭を祝いに来たキレネ人シモンには出くわしたくない出来事でした。このように罵りや罵声の中に置かれながらシモンの人生はイエス・キリストの苦難の渦巻きへと、その深淵へと巻きこまれます。

 キレネ人シモンがその後どうなったのか、『マタイによる福音書』は記しません。しかし本日はこの箇所に紡ぎたい無名の人が記した詩を味わいたく存じます。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさをあるいていた。暗い夜空に、これまでの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が遺されていた。ひとつはわたしの足跡、もうひとつは主の足跡だった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしはあの足跡に目を留めた。そこにはひとつの足跡しかなかった。わたしが人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがわたしのこころを乱していたので、わたしはその悩みを主にお尋ねした。『主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道とともにあゆみ、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばん辛いとき、ひとり分の足跡しかなかったのはなぜですか。いちばんあなたを必要としていたときに、あなたが、なぜわたしを捨てられたのか、わたしには分かりません』。主は囁かれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに、足跡がひとつだったのは、わたしがあなたを背負っていたからだ』」。キレネ人シモンはこのようにして人の子イエスの苦難を分かちあい、やがて復活の報せを耳にして喜んだことでしょう。キレネ人シモンはこの出会いに不平を洩らさず沈黙を守ります。イエス・キリストが自らを救わなかったように。

2025年4月4日金曜日

2025年 4月6日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「たがいに支えあうために」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20章20~29節

讃美=21-57(Ⅲ.5).
   21-463(Ⅰ 494).
   21-24(Ⅰ 539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 大阪市の学校給食を見てみますと、コッペパンが異様に大きく、トングひとつまみの酢の物のようなおかずに汁物、フルーツと牛乳という具合で、その少なさに驚かされるところがあります。牛乳と汁物を除く惣菜は耐熱プラスチック製のプレートに配膳されており、アルマイトのお椀に入れられていた時代からするとお代わりしづらい作りとなっています。もともと学校給食は欠食児童、つまり事情で昼食を摂れない児童のために当初はララ物資に始まり、後には公共の福祉という観点に基づいて児童の充分な発育に資する滋養の提供という動機に始まったはずですが、何事につけて民営化という行政の方針から21世紀に強まり、心配を要する時代となりました。脱脂粉乳や鯨肉がまずかったという時代は逆に豊かだったかも知れないとの逆説が生まれつつあります。

 公教育でさえそのようなありさまです。親御さんが「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」に惹かれたとしても無理からぬところがあるかもしれません。手っ取り早く成果をあげたいとの気持ちはあるでしょうが、その気持ちが焦るほどにこどもたちは友人や家族の絆をじっくり育むことが難しくなります。

 本日の『マタイによる福音書』の箇所ではゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、息子と一緒にイエスのところに来て願い事をしたとあります。12人の弟子の中でも特別の顧みを、との願いです。そしてその内容は神の愛による統治の際に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れると仰ってください」というものでした。救い主に向けられた「神の統治の密約」とでもいうべきものかもしれません。しかしこの母は知りません。イエスは古代ユダヤ教で待ち焦がれた単なる一民族の解放者ではなく、すべての民を神の愛で包まれる方であり、そのためには十字架での死という苦い杯を呑まねばならないということを。ヤコブとヨハネの母が申し出たのは、神の国の私物化であり、人の手にその行く手を委ねられた「民営化された神の国」であり、その国で優劣をつけ、采配を振るうための競争が果てしなく続くという競争社会の延長でしかありません。けれども、わたしたちが自分の承認願望を満たすよりも先に、主なる神がわたしたちをお認めくださっているのですから、俄然事情はこの申し出とは異なってまいります。

 イエス・キリストのあゆみはそれまでのユダヤ教のメシアのイメージを根本から覆していきました。先だっては「山上での変容」の物語をみなさまとともにしましたが、カール・ヤスパースという精神医学者であり哲学者でもあり、かつその時代のドイツの全体主義政権を鋭く批判し続けた人物は、『旧約聖書』の預言者をして「聖なる統合失調症の罹患者」という表現をしました。多くの人びとからその主張が受け容れられなくても託された神の言葉を語り続け、停滞した雰囲気を読まず神の息を人々に吹き込もうとしたのが預言者でした。イエス・キリストはその時代の虐げられた人や心身ともに病み、まさしく重度の病に罹患した人とその孤独を十字架への道をたどりつつ癒していったのです。なにがしかの人の力や能力に依存するありかたは、結局は何者かを敵に仕立て上げなくては共同体を維持できません。もともと人類の共同体は飢えなり災害なり自らを脅かす事柄から身を守るために共同生活を始めたこともあり、これは避けられないことなのかもしれません。イエス・キリストは自ら排除されるその役を引き受けて「支配者への命令による服従」ではなく「仕えることの喜び」を、不穏な雰囲気に包まれた弟子の間に分かちあおうとされました。「大勢の群衆がイエスに従った」とある通りです。

 端的に申しあげれば「命令」とは人を一定の型や枠にはめ込もうとする試みであり、その枠や型にはめられない者は排除されていきます。病人、とりわけ心を病んだり知的な特性を否定的に見なされたりした人が、一般的な社会から遠ざけられていく悲劇は過去も現在も問いません。必ず誰かにしわ寄せが向かうように作られているのが命令のみに基づいた組織の特徴です。

 しかし「奉仕」には自発性があります。そしてお互いの特性を喜ぶ交わりがあります。祈りのうちにある吟味の中で、譬えその人が病に伏していても、その病を経なくては分からない世界をともにし、人を大切にする交わりが生まれます。その交わりを根底から支えてくださっているのがイエス・キリストです。イエス・キリストが人の子であったとき、誰からも理解されず仲間はずれにされていきました。恐るべき孤独の中で一人献げた「ゲツセマネの園での祈り」には、その場から逃げるか、主なる神に全てを委ねるかの極みがありました。その中で、イエス・キリストは苦い杯をお引き受けになったとの物語を尊びたいと願います。たがいに支えあうために。

2025年3月28日金曜日

2025年 3月30日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).
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【説教要旨】
ヨーロッパの絵画やステンドグラスでもよく知られる「山上の変容」。わたしたちも聖日礼拝説教のテキストとして幾度もとりあげてまいりました。人の子イエスが弟子のペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて「高い山」に登られた、と記されます。この「高い山」とはユダヤの地域においてはヘルモン山ではないかと言われております。ヘルモン山は標高2814メートル、富士山のようにそびえる山というよりも、滋賀県の比良山のような尾根が連なるような姿。凹凸の続く山頂には雪が積もりその姿は日本アルプスの尾根のようでした。
 但し標高3000メートル近い山並みは遠くから観れば絶景なのですが、実際に登るとなるとかなり険しい山道ではなかったかと考えられます。遠くから観れば美しい連山も、実際に登ろうとするならば立入る者を拒むような場所も多かったと考えられます。
 そのような危うい場所に人の子イエスは立入ってまいります。弟子達はそこで異様な出来事を目のあたりにします。それは則ち、モーセとエリヤが現れ、太陽のように顔が輝き、衣が光のように白くなったイエス・キリストと語らっているという場面です。山に登った弟子が過労によってそのような幻を観たとは福音書は記しません。むしろ次のような解き明かしが可能です。モーセは『旧約聖書』の『律法(トーラー)』を体現し、そしてエリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を代表する預言者であり、律法の完成と預言の実現を救い主イエス・キリストに見るという理解です。しかし果たしてそのような説明に終って充分なのでしょうか。
 思えばモーセもエリヤも神のいる山と深く関わった人物でした。モーセとエリヤは二人とも神の山ホレブとの関わりで結ばれています。モーセはその尾根でエジプトに苦しむ奴隷の解放のメッセージを託されました。その招きは圧倒的であり、モーセ自らの五回の拒絶を徹頭徹尾拒むものでした。イスラエルの民が奴隷解放のわざに不平を公言したとき、モーセは再びホレブの山で十戒を授かったとの物語が記されます。さらに預言者エリヤは神の誡めを忘れたアハブ王と妃イゼベルの追っ手から逃れるためにホレブ山へとたどり着きながら、疲れのために自らの死まで願ったものの、ホレブで御使いの養いと神の語りかけによって、イスラエルの民を神の御旨に気づかせるために新たに目覚め、力を授かります。モーセの物語もエリヤの物語も、恐らく『新約聖書』の舞台では伝説と化していたかもしれません。実のところモーセやエリヤが最も苦しんだのはイスラエルの民全体の神への猜疑心であり、鼻で息をする者しか見えなくなった人々の欲望でした。アハブ王もまたイスラエルの王でした。
 人の子イエスの弟子はこのような経緯を受けとめるにはあまりにも素朴な人々でもありました。それは人の子イエスの変容に驚愕したペトロが、この三人を奉るための小屋を建てようとする言動からも透けて見えます。「これはわたしの愛する子」と響く声はバプテスマのヨハネによる洗礼の折とは異なる畏れにあふれていました。さらにイエスは改めて自らの死と復活を語った上で、時を遠く経た時代にはモーセやエリヤが英雄化されるものの、実際のところイスラエルの民はこの二人を畏れ敬うどころか軽んじて好きなようにあしらったと語ります。この「好きなようにあしらう」との言葉は「なぶり者にする」「陵辱する」という、一切の尊厳を認めなかったとするまことに強い意味をもつ言葉です。
 『旧約聖書』に描かれる人間像を、もし神の愛なしに読み込もうとした場合、おそらくそこにはわたしたちがこれまで味わったことのないグロテスクな人間像が描かれていることでしょう。イエス・キリストはその道筋を神とともにあゆみ、隠された神の愛を人々に示すだけでなく、自らの苦難を通してその光で世を照らした救い主でした。初代教会がまずキリストの十字架への苦難と死、そして復活の出来事をクリスマス物語よりも先に置いたわけがそこにあるように感じられてなりません。顧みてわたしたちの交わりはいかがでしょうか。教会の交わり、もっと言えばキリスト教の世界にありながらグロテスクな人間像に辟易された方々はいないでしょうか。もしも行き詰まりを感じるならば、人の姿に理想を求めるのではなく、イエス・キリストがどのようなあゆみをたどられたかを繰り返し思い起こす祈りが求められます。その祈りは救い主が世に遣わされる前から、『旧約聖書』の時から一貫して流れる神の愛によるものです。この祈りに目覚める者は決して多くはありません。しかしその多くはない人々はイエス・キリストを通してやがて「地の塩・世の光」として「我知らずして」神の愛と出会い、豊かに用いられ、その途上で出会う人々を苦難から解放するのです。わたしたちもその群れに数えられています。


2025年3月21日金曜日

2025年 3月23日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).
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【説教要旨】
  福音書の場合、カイザリアと呼ばれる地域には、概してローマ帝国の軍隊の駐屯地、ならびにその駐屯地を中心にして栄えるユダヤ教徒ではない者たちが集い、繁栄する地域があちこちにありました。とりわけこの町に暮らすユダヤ教徒は絶えずローマ帝国からの圧制を肌身に感じずにはおれなかったことでしょうし、またその圧制に対するところの屈折した生き方や思いも様々であったことでしょう。ユダヤ教徒の暮らす集落には分断と裂け目がいたるところにあったと考えられます。

  そのような呻きの響く地域にあって人の子イエスは各々の弟子に住民の噂を問い尋ねます。噂とは一般には根拠のないもので別段気にする必要もないのですが、むしろその噂のなかに人々の置かれた事情を問い尋ねようとする真摯な向き合いを人の子イエスの姿に見出せるというものです。弟子たちは口々に申します。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。いずれもその時代に人々が求めた『旧約聖書』に記される預言者であり、人の子イエスとの深い関わりにあった「最後の預言者」と称された人々です。共通するのは主の御旨に沿わずに進む道を誤った民衆や、権力を誤って用い、重要な判断を違おうとする王や指導者層に対して諫言を発し、他方で虐げられた人々に神の国の訪れや癒しのわざを行った、「神の言葉」を預かるとして描かれた者でした。いわばその時代のユダヤ教徒には英雄視されていた人々の名が列をなし、その姿が人の子イエスに重ねられていたのも無理はなかったと申せましょう。

  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。カイザリアの地域の人々の具合を踏まえて、あなたがたはどのように思うのかという、極めて内面に立入った問いかけを人の子イエスは弟子各々に突如として向けます。これまで従ってきた弟子には何を今さらという思いを抱いた者もいたかもしれませんが、そのようなざわめきを『マタイによる福音書』の書き手は第一には記しません。むしろシモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という初代教会の信仰告白に連なるペトロの理解を引き出しながら、「あなたは幸いだ」と祝福した上で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国での鍵を授ける」との、まことに力強い宣言です。ローマ・カトリック教会ではこの箇所をして初代の教皇がペトロであると主張し、他の教会教派への優越を説きます。

  しかしそれではこのペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との理解は主なる神の御旨に適ったものだったのでしょうか。なるほど言葉としてはその通りでしょうが、この後よりイエスは自分が必ずエルサレムへ行き、長老・祭司長・律法学者から多くの苦しみを受けて殺害され、三日目に復活すると話し始めます。残念なことにペトロは人の子イエスのこの発言が理解できません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。そのようなペトロにイエスは振り向いて「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく戒められます。片やペトロは幸いだと祝福され、片やペトロは「サタン、引き下がれ」と戒められる、極めて揺れの激しい弟子であるとともに、わたしたちは初代の教皇というよりも、日々の自らの姿をペトロに重ねます。ペトロのメシア理解は誤っていたのであり、鼻で息をする者しか目に入らない者の、実に曖昧な思い込みでしかなかったとも申せます。

  思えば人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家の中庭に連れてこられたとき、ペトロは鶏の鳴く前に三度イエス・キリストとの関わりを否定しました。しかしイエス・キリストはペトロとの関わりを否定するどころか、その態度に自らの預言の成就を見るだけでなく「わたしは決してあなたがたを見捨てることはない」との神の愛の証しを貫かれました。それは十字架の上で槍に刺し貫かれるよりも強い絆であり、歴史上の教会の分断の危機、交わりの分裂の危機を幾度もいくたびも救うという出来事に示されています。教会もまた、動揺するペトロのようにその態度を貫くことのできない、破れに満ちた交わりという一面ももっています。しかしだからこそわたしたちは、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎながら、「この人こそが救い主イエス・キリストなのだ」との確信を抱くのです。信仰とは個々人の思いや拠り所に留まらない、イエス・キリストとの関わりです。その関わりはいかなる試練のなかにあっても絶たれるどころか、却って強められる神の愛を示しています。

2025年3月14日金曜日

2025年 3月16日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節

讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255). 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 視覚を失い、話すこともできず、そしてその症状から察するに聴覚も奪われたと思われる人物が本日の箇所には描かれてまいります。その人は自分の目指すところへ自力でたどり着けません。支える者に連れてこられ、人の子イエスのもとへと身を寄せます。人の子イエスとの出会いのもとで、その人の目は開かれ、そして恐らくは耳も聞こえるようになり、話ができるようになったとの出来事が記されます。見えない、聞こえない、話せないという閉ざされた状態から、人々との交わりの中へと押し出されたこの人の姿は、あたかもヘレン・ケラーとアニー・サリバンとの出会いと重なるようです。しかし全く異なるのは、この素晴しい出会いに横槍を入れる者がいるというところで、ヘレン・ケラーの伝記とは異なった筋立てとなってまいります。

 その時代の正統派ユダヤ教徒、もっといえばその時代精神を司る自負にあふれた古代ユダヤ教の指導者の群れであるファリサイ派の人々はこの癒しの出来事を認めません。おそらくは自分たちの知る癒し人やその時代の医者がことごとくその治療に失敗したか、あるいは現在よりもさらに輪をかけて心身の壮健さが追求された時代です。癒された人は「見えず、話せない」という特性だけで、もはやすでになにがしかの呪われた者や穢れた者として扱われたことでしょう。それは次の言葉に凝縮されています。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。騒ぎ立てるファリサイ派の者たちは、この音のなく、光もないままに放置されてきた人を助けもせずにやかましく騒ぎ立てるばかり。そして振りかざすのは、荒れ野で人の子イエスを試みた悪魔と同類の悪霊の頭ベルゼブル、俗には巨大なハエとして描かれる暗黒の存在であり、強い力が弱い力を排除するという道筋でしかイエス・キリストの癒しのわざを理解できません。その態度に向けてイエス・キリストはどのように反論するのでしょうか。

 それは一見すると実に世俗的な譬えから始まります。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成立っていくだろうか」。人の子イエスが指摘するのは、力の論理と排除の論理では癒しの出来事は決して生じないところにあります。イエス自らによれば、窃盗団は力尽くで人の家に押し入ります。しかし結局はその動機が「奪い合いと陥れ」にあります。ですからついには盗品の奪い合いとなり、集団そのものが瓦解していく状況にも似ています。そのうえで、人の子イエスは次のように語ります。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところへ来ているのだ」。イエス・キリストは横槍を入れてきたファリサイ派を決して否定しません。それはファリサイ派の言葉とは、全く異なる次元から発せられている教えだからではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々の言葉は「否定」に終始します。否定の言葉からは何も生まれず、現状を変えもせず、いのちを育てもせず、交わりを広げようともいたしません。他方でイエス・キリストの言葉は、暗闇に閉ざされた名も無い人を癒すというわざに拠って立ちます。喜びの分かちあいがそこにはあります。『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの愛のわざへの否定を集約すれば、それは最終的には荒れ野での誘惑における試みの声と同質のものとなります。しかし他方でイエス・キリストの行う癒しのわざへの喜びと感謝の声は、神の愛の力、則ち神への讃美のわざ、神の愛による統治を待ちつつどのようなところにいてもいのちを祝福する力に根ざしています。片方は他を廃し、多様性を認めず、収奪の果てに自ら朽ち果てて倒れていくのであって、草木も生えないと見捨てられた土から芽生える麦のような生命力はそこにはありません。

 東日本大震災が様々な問題を残しているだけでなく、パンデミックの時代を経て、食糧不足と世界大戦の危機という、わたしたちの尺度の通じない「グレートリセット」と呼ばれる時代。その今でも、イエス・キリストの愛は世の分断を乗り越えます。だからその幾度も、何十編も、何百編もそれが裏切られ、苦しみに遭おうとも、なおその愛はわたしたちを包もうとしてやみません。荒波を乗り越える度ごとに、わたしたちはイエス・キリストの愛の証し人として立たされています。そう、見えず、聞こえず、話せない三重苦に苦しんできたこの人を、イエス・キリストのもとに連れてきた、文章が受け身の文体で描かれているがゆえに、その存在すらおぼろげな、これまた無名の人のように、です。分断の叫びの中に、わたしたちは神の愛による一致を先取りしています。

2025年3月6日木曜日

2025年 3月9日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 大阪メトロ堺筋線「動物園前」駅9番出口。この出口から地上に出て阪堺電車架線下をくぐりますと、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」にいたります。かつては日雇い労働者の街とされたこの土地も、今では行政の手が至る所に入るようになり、「ジェントリフィケーション」という問題が生まれつつあります。ジェントリフィケーションとは、概ねもともとは貧しい人たちが寝起きしたり食事したりするというような場所を、その普通の街並みとは異なる様子を逆手にとってブランド化し、企業の「目玉商品」として商標化しやすく道筋を言います。例えば仕事を終えて牛や豚の内臓を炒めたホルモンという食べ物があります。由来は「捨てる」を意味する大阪ことばの「放る」にその名が由来すると申しますが、このお店をマスコミ関係者やYouTube動画で下町グルメ番組に再編してまいります。観光客にはガイドブックにはない「下町グルメ」として喜ばれ、値段も上昇し、その場にいた労働者の人々はいつの間にか姿を消すといった具合です。日当で買ったホルモンを分かちあう時代から、星野リゾートのような高級ホテルの建築に伴い土地が買い占められ、互いに助け合っていたそれまでの絆が、人を豊かにするはずの富によって分断される様を肌身に感じながら、充分な医療も受けられなかったあの人たちはどこに行ってしまったのだろうと時に涙を禁じ得ません。

 本日の福音書で人の子イエスが行かれた荒れ野とは、文字通りの荒れ野を越えてさまざまな渇きに満ちた場ではなかったかと推し量るのです。40日間の断食を続けるなかで受けた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」との声でした。これに対してイエスは「『人はパンで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』」と『聖書』を引用します。この誘惑は「食」という生物的には是非とも必要な根源的なわざを独占させようという目論みがあるということです。逆に言えば「分かちあい」という態度が欠如しています。次には『聖書』を引用しながら「神の子ならば、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と神を試させようとします。言うまでもなく「大切な人を試す」とは「その人との関わりを疑わせる」こと。誘惑はイエス・キリストに神との関わりを絶ち切ろうとさせます。そして終には「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を与えよう」とさせます。国々の繁栄の陰に苦しむ貧しい人々や病床にある人々の姿は、神ならぬ者に連れていかれた高い場所からは見えるわけがありません。人の子イエスは語ります。「退け、サタン」と。この箇所で初めて天使が現れて人の子イエスに仕えたと記されます。

 この一連の「誘惑」の物語は有名ですが、概して見落とされがちなのはこの荒れ野での人の子イエスの放浪が、自らの意志に基づいている修行のようなものでは決してない、というところにあります。あくまでも、直前の箇所で鳩のような姿で降りてきた「霊」の力、すなわち神の愛の力によって成し遂げられたというところにあります。わたしたちが日々の暮らしのなかで晒される誘惑を人の子として味わわれたイエス・キリストの道筋は、すべて神の愛の力によって背を押されて味わった出来事でもありました。逆に申しあげれば、わたしたちが日頃味わっている恐怖や苛立ちや孤独感もまた、主なる神の愛による導きであるとも言えるのです。公園で炊き出しを求めている人の列があります。その列があるからこそわたしたちはどうにかせずにはおれないと思い、あれこれと人の世の誰の命令にもよらずに食事を届けようとします。ある人に待ち合わせの約束を破られたとしても、憤ってその人との関わりを絶つのではなく「何かあったのだろうか」と心配をします。目を奪われるようなご馳走も結構ですが、いろいろな人の集まる餅つきのほうが楽しくやり甲斐があります。長年複雑だった親族との関わりを捨ててしまうよりも、できるなら次の世代でもよい、せめてひと言話ができればと願います。そのような暮らしの場所でわたしたちはさまようのではなく、イエス・キリストとともにさまざまな誘惑に晒されながらも感謝しつつ活かされ、神の愛に支えられているのです。

 分断の声ますます強まる今の世にあって、わたしたちが礼拝を尊ぶのは何よりも「神の言葉一つひとつで生き」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との教えを、各々の賜物に則して歩みたいと願うからではないでしょうか。主なる神はわたしたちがどのような誘惑に晒されても、どのような惨めさを味わおうとも絶えずともにいてくださり、イエス・キリストの姿を通して圧倒的な恵みとともにその実在をお示しになります。