2025年4月16日水曜日

2025年4月18日(金曜日) 夜 受難日礼拝 説教

―受難日礼拝―

時間:午後7時00分~

場所:泉北ニュータウン教会 カフェテリア

  

説教=「アリマタヤのヨセフの勇気」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』 15章 42~47節

讃美歌=136番 142番

礼拝当日、午後7時より
礼拝のライブ配信を致します。
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【説教要旨】
 人の子イエスは社会のどん底で苦しむ人々を癒し、その苦しみが当然だと諦めるほかなかった人々を励まし、傷みを分かちあい、満たされる喜びをともにし、ユダヤ教徒・異邦の民の垣根を越えて主なる神の愛を、全身をもって証しされました。そしてその称賛の声が広まるほど世の力ある者たちはそのわざを危険視し、濡れ衣を着せて殺害を試み、そしてその計画は表向き成功を収めます。つまりイエス・キリストは一人の犯罪人として処理され、十字架で殺害されます。今宵の受難日礼拝はその抜き差しならぬ苦しみと痛みが誰のためであったのかを確かめるために執り行われます。

 苦難の頂点の象徴でもある十字架での死と、いのちの輝きに満ちた救い主としての復活の出来事。しかしわたしたちはこの十字架での死と復活の光の間には葬りのわざがあるのだとの福音書の記事を忘れがちです。この弔いにあたって福音書の書き手は初めて「アリマタヤのヨセフ」という人物を描きます。この人は『マルコによる福音書』では「アリマタヤ出身で身分の高い議員」、『マタイによる福音書』では「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ、イエスの弟子」、『ルカによる福音書』では「議員であり、善良な正しい人、同僚の決議や行動には同意しなかった」、『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と様々に解説されますが、いずれにせよ人の子イエスと親しい、その時代の相応の地位にいた人物だといえます。イエスの時代に近づく福音書の物語ほど、このヨセフの誠実な態度が描かれます。

 とくに本日の箇所では「この人も神の国を待ち望んでいた」とあるだけでなく、「勇気を出してピラトのところへ行き」「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」と記されています。この様子をわたしたちは祈りの中で思い浮かべたいところです。

 人の子イエスの亡骸は、荊の冠を被せられ、幾度も鞭打たれただけではなく手足を釘打たれて打撲と内臓の機能不全、全身から出血したままで放置されていました。しかも槍を身体に刺されてその死が確認されたことから、ほぼ身体は原型を留めていなかった可能性すらあります。人から言われなければこの人がイエスと分からないほど痛めつけられた遺体です。十字架刑は国家転覆罪をはじめ極めて悪質な死刑囚にのみ用いられるところから、もしアリマタヤのヨセフがファリサイ派の律法学者であれば自ら死刑囚イエスとの関係を公言しているようなもので、自らの立場だけでなく、仲間の律法学者からも「あの男の仲間」として訴追される恐れがあります。現代でも死刑を経た遺体が家族や身内からも異なる墓に葬られるのを常とされるのが当然です。

 さらには人の子イエスの処刑はローマ帝国の名の下で執行され、本来なら晒されるところです。ですから遺体の引き取りは総督ピラトのもとへ直々に願い出なければ不可能です。十二弟子はもはや姿を消しました。ファリサイ派の律法学者アリマタヤのヨセフだけが恐らくは兵卒や下役とともにイエスの亡骸を十字架から引き剥がし、手足に打たれた釘を抜き、亜麻布を巻いて遺体の姿を整えて、準備させた墓へと納めたのかもしれません。救い主がこのようなありさまになろうとは、当時のユダヤ教徒には到底考えられませんでした。だからこそアリマタヤのヨセフには社会的地位もいのちの危機もこの亡骸を前にしてはもはやどうでもよいものだと映っていたのかもしれません。ヨセフはイエス・キリストにすべてを賭けました。洗礼者ヨハネがそうであったように、この人こそ救い主であるとの確信あればこそ、です。

 さてイエス・キリストが葬られているあいだを「使徒信条」ではどのように表現しているでしょうか。それは「陰府にくだり」とあります。死後の世界について『旧約聖書』は神の国の訪れまで死者の亡骸は地の底で眠りについたままです。ギリシア語で描かれた世界には死後には死者の世界、天国には天の国があります。この陰府がわたしたちの文化でいう地獄であったらいかがでしょう。欧米文化でいう煉獄や氷で閉ざされた地獄であればどうでしょう。復活の出来事にいたるまでの三日の間、イエス・キリストは本来ならわたしたちが赴くべき阿鼻叫喚の場へと、まさしくその場に相応しい傷ついた身体とともに降られたこととなります。本来ならばわたしたちが永遠の炎によって焼かれるはずの場へとイエス・キリストは赴かれ、そして復活の備えをされます。イエスの両脇で十字架に架けられた強盗たちも、この場で救いに与るはずです。あらゆる絶望の闇を打ち破った神の愛の勝利がヨセフの行動を裏づけています。かの時の人々とともに祈りつつ復活の時をわたしたちも待ちましょう。