2025年4月25日金曜日

2025年 4月27日(日) 礼拝 説教

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「買収を拒む兵士たちの姿」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28章11~15節
(新約60頁)

讃美=21-325(148),21-326(154),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人の子イエスの埋葬された墓に封印をして厳重な警戒にあたったものの、イエス・キリストの復活の出来事にすべてを台無しにされ「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」番兵たちの姿がありました。喜びではなく絶えず恐怖によって支配されたその判断力は主体性を失い、新たな命令を求めてエルサレムに戻ります。イエス・キリストに出会った女性たちが弟子のもとに到着するより先にエルサレムに戻ったとされるのも、番兵の狼狽ぶりを表わしています。祭司長も長老もその圧倒的な出来事を前にして即答できず、多額の金を与えて「『弟子たちが夜中にやって来て、寝ている間に死体を盗んで行った』と言え。総督の耳に入ってもうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と兵士を買収した上で虚偽報告の命令を重ねます。予想もしない出来事を前に言葉を失った名もない、いつでも斬り捨てられる番兵を人間扱いしていない、神の愛とは対極の姿が描かれているようにも映ります。

 実際にこのような虚偽報告や虚偽申告を強要される犯罪は、巧妙な詐欺が身近なところにある以上わたしたちとも無関係だとは断定できません。つい相手を信用したことで人生を棒に振ってしまった人々をわたしたちは直接ないし間接的に知っています。そしてそこには物事を多角的に検証する余裕のないところまでに追い詰められてしまった悲しみを観るのです。イスカリオテのユダでさえ無実の人の子イエスが十字架で処刑される不条理さに耐えきれず銀貨三十枚を手放しました。しかし他方で番兵は金を受け取り虚偽の噂を流すこととなりました。この人々は物事の判断の根を神以外に求めた態度ゆえに自由に語り、動き、仕える充実さと喜びを失いました。とは言えローマの兵士やエルサレムの警護にあたった番兵とはこのような者ばかりだったのでしょうか。

 ひと口に兵士と言ってもそこには個々人の織りなす多様な姿を福音書は描き出します。その描写は決して一様ではありません。人の子イエスが十字架で叫びをあげ息を引き取ったその折、処刑の現場監督でもあった百人隊長、そして見張りを担当した者はその姿を見て「本当にこの人は神の子だった」と呟きます。『マルコによる福音書』では百人隊長ひとりとなりますが、この言葉には地上の生涯にあったイエスに「あなたはメシアです」と答えたペトロとは根本的に異なる態度が示されます。古代ユダヤ教でのメシアは手に架けられて十字架刑で処刑・殺害されるなどあってはなりません。処刑の場に弟子の姿が描かれないのもそのような理由あってかと考えます。しかしかの百人隊長は十字架で息をひきとった救い主の姿を前にして「本当にこの人は神の子だった」と呟くのです。多くの罪人の処刑に立ち会ってきたこの下級将校である百人隊長の言葉の重みは別格です。

 また本日の福音書の8章では別の百人隊長が自らの僕の癒しを人の子イエスに懇願します。その真摯な態度に感心したイエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と語ります。イエス・キリストの愛はすでに支配者と圧政を受けている者の末端で苦しむ者双方に及んでいるのです。『使徒言行録』では言わずもがな、キリスト者となるローマ帝国の兵士や将校は後を絶ちません。

 もしもこの番兵たちがその後ピラトから復活したイエス・キリストを追跡するか、さもなければ失われたイエスの亡骸を捜せとの命令を受けたとするならば物語はどのような展開を見せるでしょうか。厳重に封をした墓が弟子に暴かれたのであればそれは番兵の失態でしょうし、極刑に処せられた者の遺体であれば監視者自身が処分されてもおかしくありません。もし番兵が復活したイエスの姿を追い求めていくとするならば、それはいつの間にか祭司長や長老たちの買収への囚われから離れて、イエス・キリストに従うわざへとそのあゆみは変えられ、清められていくものと確信します。もはや番兵たちの判断の尺度は買収の時に受け取った僅かな金子にではなく、出会った人々の語る復活したイエス・キリストの物語に根ざしてまいります。

 最近では若い世代で将来に「お金持ちになりたい」との夢を抱く人々が少なくないといわれるようになりました。金融関係や証券取引、仮想通貨も流行しています。しかしタブレットほどの大きさの金塊を見たとしても、わたしたちの心はそれほど動くでしょうか。それを私物化したいと思うでしょうか。『使徒言行録』でペトロは語ります。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。きらびやかな財宝よりも強靭な力をわたしたちはイエス・キリストから授けられています。「ディール」という語が独り歩きしがちな世界をイエス・キリストの復活の出来事は揺り動かします。