2025年5月2日金曜日

2025年 5月4日(日) 礼拝 説教

―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「愛するために生き直す」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章38~42 節
(新約23頁)

讃美=21-327(151). 
21-464(534).21- 29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『旧約聖書』の記事には、少なからず都市、時には世界が滅亡するという物語が描かれます。現代人からすれば現象からすれば自然災害であったり戦争の結果に破壊されたりという理解へとつながるのかもしれませんが『旧約聖書』の書き手はそのように出来事を年表形式で淡淡と書き記すのではなくて、主なる神からの何らかのメッセージが込められているとして描かれます。もとよりその滅亡の出来事が他人事であれば感情移入のない記録文も可能でしょうが『旧約聖書』ではすべてが当事者の目線で描かれているという点では読み手や聴き手を引き込む力をもっています。「天地創造」を含む物語では「ノアの箱舟」、「族長物語」では「ソドムの滅亡」、預言者の物語では「イスラエル王国」「ユダ王国」の滅亡、さらには「エルサレム」の滅亡までが極めて精緻に描かれます。いずれにしても「滅び」とは神の備えた道からその判断や生き方が次第に逸れていく人々の行着くところとしても描かれているとの一面があります。

 しかしそのような物語が続く『旧約聖書』で極めて異彩を放つのが『ヨナ書』です。『ヨナ書』に細かく立入って語りかける人の子イエスがこの書物に言及するのは、イエスもまた『旧約聖書』に通じていたところを証明する記事でもあります。『ヨナ書』とはアッシリア帝国の都ニネベを救えとの主なる神の言葉を聴きながらもその命令に抗い逃げようとする預言者ヨナの味わう旅とその体験を描いています。わずか四頁ほどの物語ですがその中には『新約聖書』に流れ込む神の愛が記されています。神が救えと命じた都ニネベは、かつてアッシリアがヘブライ人の王国を滅ぼした際、実に残虐に振舞った人々の住まう街として知られていました。成年男子は全身の生皮を剥がされ城壁に貼られ、女性は辱めを受けます。その結果生じたのがサマリアの人々だとされました。ですから預言者ヨナからすれば万死に値する街、滅びに値する街として憎悪の的でしかなかったはずです。しかしヨナが嵐の海で舟の外に放り投げられ、大魚に呑まれて三日目に到着したその都を回りながら悔い改めると、ニネベの街の人々は悔い改め、王もまた救いを求めて生き直そうとします。その姿を見て神はニネベの街を滅びから救うのですが、預言者ヨナには合点がいかず、神と激しく議論するという内容です。

 おそらくはバビロン捕囚以降、ことごとく強大な異邦の民の支配のもとにあって、いつの間にか歪んだ選民意識に捕らわれ始めた古代ユダヤ教の一部の人々と、『旧約聖書』に記されるように、神は自らに似せて創造された「人」をあまねく救われるとの葛藤が人の子イエスの舞台にいたっても続いていたことでしょう。その中での問答として「先生、しるしを見せてください」との言葉が律法学者やファリサイ派の人々から出たに違いありません。しかし人の子イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるし以外にはしるしのほかにはしるしは与えられない」と語ります。そして自らの弔いの時と魚に呑まれたヨナの時を重ねて、神の国の訪れの時にはニネベの人々もまた「よこしまで神に背いた時代の者たち」を罪に定めると述べるのです。「悔い改め」という言葉は誤解を招く場合もありますのでわたしは本日「生き直す」と言い換えてみます。この「生き直し」というチャンスがある限り、わたしたちはいのちの儚さや虚しさに溜息をつく必要は全くないのです。「誤った道をたどったわたしたちが悪い」のではなくて「誤った道をたどったからこそ、今のわたしたちには生き直すチャンスが豊かに備えられている」との喜びが生まれてきます。その「生き直し」の喜びを示してくださるのがイエス・キリストであり、ソロモンの知恵を尋ねに遠く旅してきたシェバ(エチオピア地方)の女王はユダヤ教徒ではない「諸国の民・異邦の民」でありましたが、だからこそそこにもまた神の祝福が豊かに臨んでいるとのメッセージをイエス・キリストは喜びにあふれて語ります。人の子イエスの語る神の愛はあらゆる境を越えてどんなに愚かだといわれようとも、そのようなわたしたちに恵みに満ちた生き直しのチャンスを与えてくださります。
人々を安全・安心な暮らしに導くはずの法律やコンプライアンスが厳密になるほどに、わたしたちの日常はどこか窮屈になるような印象も覚えます。また過去に罪をおかした人が安定した職業に就き社会復帰を果たすわざも決して簡単ではありません。身体も弱り前途に否定的になり、パニックや悪循環に捕らわれもするわたしたちです。けれどもそのようなときに「誰かを愛するために生き直す」「神に愛されているから生き直す」というチャンスを授かる実に豊かな時が備えられているとの『聖書』の言葉に確信をもって新しい週を迎えましょう。