時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
加持祈祷によって手に負えなくなった病を癒そうとする。また心病んだ人の具合を癒すためにまじないを行う。いずれも日本社会では今も残るところの、しかし表立っては姿を見定めがたい民間療法にも似た振る舞いがあります。いずれにいたしましても医療技術が今日のようにではなく、また医療技術からは排除され追い詰められた人々が群がる場所が今でもあります。
そのような人々にとって今日「神」という言葉がどれほどの響きをもつというのでしょうか。もちろん戦争によって多くの犠牲のうちに前途の展望を絶たれ、焼け跡に佇む人々には「大丈夫、神さまがいてくれる」との言葉は格別の響きをもったことでしょう。しかし現代のわたしたちの身近に暮らす人々にその声はどれほどの力をもって迫るというのでしょうか。年齢を問わず部屋にひきこもる人々にその言葉は通じるというのでしょうか。
人の子イエスが群衆と弟子に教えられた祈りとは、その時代におきましても、現代におきましても、そのあり方を根底からひっくり返すわざでした。6章の5節では、それまでの教えを踏襲して、他人の承認を拒むところの祈りです。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。承認欲求を満たすために限られた祈り。当時でいうところの「偽善者」とは形式化された祈祷書をもとにして祈りを献げるサドカイ派を始めとした祭司階級の人々に見られがちな祈りでした。かつてモーセとアロン、また預言者たちがイスラエルの民のために血肉を振り絞るように献げた祈りとは異なる、生活や暮らしの流れとは全く関わりのない祈祷は呪文と同じ。人々に畏怖の念を与えこそすれ、神との関わりにいのちを吹き込み、その関わりを活きいきとさせるわざにはなりづらいところがあります。せいぜい何かの合図といったところではないでしょうか。反対に人の子イエスが伝えようとした祈りとは他人の目には触れないところの祈りです。本来であればエルサレムの神殿にも大祭司しか立ち入れない至聖所という場所があり、そこで聖職者が祈りを献げるわざが尊ばれていたのですが、本日の聖書箇所からするとエルサレムの神殿の至聖所もその機能が十分には果たせていなかった可能性もあります。さらに人の子イエスの祈りは、神に人の願いを叶えてもらおうとして献げるものでもなさそうです。神が人を救うのであって、願いを叶える便利な神を人が作ったわけではないからです。
イエス・キリストが伝えた祈り。それが本日の箇所、「主の祈り」の雛形ともなる教えの内容となります。この箇所で人の子イエスは、一度も「神」という言葉を用いません。あまりにも祈祷文の中で書き記された言葉は、人々の生活文脈に適さないどころか、理解適わず、暮らしに全く響かなくなっていたとも申せます。その代わりに用いられたのが「父」という言葉。現代からすれば種々の批判に晒されそうな文言でも、その時代に立てばなるほどと膝を叩ける言葉です。本当のところ、言葉のニュアンスは「お父ちゃん・おとん」。現代に較べてはるかに肉体を酷使した時代、治安の悪かった時代。公私ともに父親が家族のために犠牲となる場面は今以上にあったと思われます。またローマ帝国の軍隊では、キリストが十字架を担ぐ際にキレネ人シモンを徴用したように、旅に出た父親が問答無用で拉致される事件も多かったことでしょう。現代以上に母と子だけの家庭が多かった世にあって「父」とはいかなる存在だったか。そう言えば人の子イエスの父ヨセフも静かに福音書の表舞台から姿を消していきます。「父ちゃん」という言葉から、心から希望を必要とする人々と『旧約聖書』に記されたアブラハムの神との関係の再構築が行われます。もはや祈祷文ではなく、人々の暮らしそのものが祈りとして祝福され、そのままの姿で聖化されていきます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」との一文はさらに決定的です。他人から受けた痛みや苦しみを「神なるお父ちゃん」に棚上げするならば、日々の暮らしの中で深く負い目を抱えていながらもお父ちゃんである神は憎しみから解き放ち、前を向かせ、抱きしめてくださるとの理解に繋がります。そうなのです。本日の箇所で描かれた「お父ちゃん」である神とは『ルカによる福音書』15章に描かれる「放蕩息子の譬え」で描かれる父親としての神でもあります。さまざまな事柄に挑戦しながらも失敗を重ね、物乞い同然の姿で家に戻ってきた息子を、誡め通りのあゆみをたどった兄とともに、兄弟同士のわだかまりを温かく宥めながら豊かな交わりをともにする父親なのです。そのような「父なる神」を人の子イエスは示しました。ひきこもりの襖を開けてその懐にとびこんでいきましょう。