2025年5月15日木曜日

2025年 5月18日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「悩みごとをうけとめるには」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』14 章1~9 節
(新約132頁)

讃美=21-466(404),520,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 悩みごとを抱えて夜も眠れないという方が本日の礼拝にはおられるかもしれません。また中継動画をご視聴の方にもおられるかもしれません。親の行く末、子の行く末、わが身の行く末などを案じればきりが無いと言われる人もいるかもしれません。ただし事実ここしばらくのゴールデンウィーク明けと申しますのは、心療内科クリニックがフル稼働せずにはおれない時を迎えています。『牧師閉鎖病棟に入る』『街の牧師 祈りといのち』『弱音を吐く練習』と連続してベストセラーをものしている王子北教会の沼田和也牧師は自ら心を病みながらもそれまで社会はおろか教会の会衆席にも座る場所のなかった人々に光をあて、悩みをめぐって言葉を紡いています。
沼田牧師の選んだ道とは「悩んではいけない」と単純に思い悩みや心の病を否定するところからは始まりません。むしろ悩みを抱え続けているその態度に主なる神から託された価値を見出そうとします。弱音もこぼれましょうし、周囲も巻きこむことでしょうが、それでも思い悩みを否定するのではなく、また『聖書』にそう書いてあるからと悩むわざそのものを否定はされません。むしろ自ら抱え込むほかなかった悩みを、イエス・キリストを通して神に棚あげするというあり方も考えられるというのです。

 精神医学者の野田正彰さんは青少年犯罪者の生育環境の共通点として、仏壇や神棚など手を合わせる場所が屋内にないと指摘されますが、沼田和也牧師のお考えは野田さんの逆を行きます。わたしなりの理解に留まりますが、神棚に献げられるのは榊やお札、盛塩などでしょうが、そのように神棚に「清らかなもの」を献げるのではなく、「思い悩み」「思い煩い」という実に重たい、くさい臭いがしようがベトベト汚かろうが背負わされたどす黒い塊を委ねてしまえというのです。そして後は敢えてそのまま放置するのも一つの道であると語っているように思います。

 悩みごとをうけとめる人が自らを客観視するため良心的な精神科医と対話するのはよくあることですが、ただの対話ではなかなか客観視は難しいところ。その苦しみは『聖書』の世界では「悪霊に憑かれた」と表現されるのでしょうが、「苦しみを分かちあう」という道筋を示してくださったのが他ならぬイエス・キリストです。

 本日の『聖書』の箇所の続きには、「わたしが父の内にあり、父がわたしの内におられることを信じないのか」との言葉が続きます。わたしたちの思い悩みをイエス・キリストがうけとめ、キリストの苦しみをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が受けいれられるという、イエス・キリストとわたしたち、そして父なる神がお互いに苦しみを担い、いつか善きものに変えてくださるとの約束が記されています。
どのようにわたしたちを苦しめる者や原因があったとしても、そのような苦しみや悲しみもまた主なる神の知るところです。いわんやそれが神罰だというような理解は『聖書』には描かれてまいりません。だからこそ刑務所に服役されている人も、重い借金を抱えている人も、入院されている人も、そのただなかで、時には世代を経て主なる神に向けて顔をあげる時を備えられます。今解決できない案件を急いで解決しようと悶えなくてもよいのです。

 思えばイエス・キリストの癒しの物語や譬え話に登場する人々は、さまざまな人間的な破れを抱えています。徴税人であり、もともとは相応の財産をもってはいたものの、度重なる診察費で貧困生活を強いられるようになった流血の停まらない女性、仕事の効率からすれば放置した方がよいのにも拘わらずひたすら迷い出た一匹の羊を追い求める羊飼い、銀貨を無くした女性、大勢の金持ちが献金をこれ見よがしにする中で銅貨一枚を献げる女性、重い皮膚病に罹患し事実上の隔離を余儀なくされている人々、悪霊に憑かれたと言われ長らく墓場で暮らしていた人々。中風を患い仲間に戸板で運ばれてきた人、視力を失い、聴覚を失い、言葉を失った人々。誰もが救いの絵をギリシア人の感覚で美しく描こうとするならば、みな不要であると排除されていった人々です。しかしそのような人々の痛みや苦しみをわがこととしてお引き受けになったのがイエス・キリストです。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げものとした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる」。『イザヤ書』53章の「苦難の僕」の詩です。眠れられない夜が続くならば、服薬も大切ですが、祈りの中イエス・キリストに課題を棚上げするのはいかがでしょうか。それこそ「委ねる」あり方と表裏一体のわざです。悩みを恐れず、病を恐れず、あゆみを重ねてまいりましょう。