時間:10時30分~
讃美=158,21-530(403),21-26.
ある人が地上の生涯を全うしたとき、わたしたちはその人が亡くなったとはあまり申しません。どのような道筋であれ、その場合は「天に召された」という表現を用います。実に言い尽くしがたい荘厳な響きをもちます。
説教=「キリストに祝福される世界」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』24章44~53節
(新約161頁)
聖書=『ルカによる福音書』24章44~53節
(新約161頁)
讃美=158,21-530(403),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
ある人が地上の生涯を全うしたとき、わたしたちはその人が亡くなったとはあまり申しません。どのような道筋であれ、その場合は「天に召された」という表現を用います。実に言い尽くしがたい荘厳な響きをもちます。
この「天に召される」という表現と、イエス・キリストの昇天とは全く異なる次元に立ちます。イエス・キリストの場合は、自ら世に遣わされ、救い主として人となり、地上の生涯を十字架で苦しみの極地のなかで終えられ、葬られた後に復活されて、そして自ら天に昇るという意味で「天に召される」のではなく「天に昇る」と唯一無二の仕方で書き記されます。しかし『ルカによる福音書』また『使徒言行録』に記されるキリストの昇天の様子を視覚的にそのまま表現したところで、却ってその書き手集団が伝えようとしているところが何であるのか、却って見失うような気がしてなりません。
まずわたしたちは、世に遺された弟子たちの立場にあわせて「キリストの昇天」の出来事に思いを馳せてみましょう。イエス・キリストは、魂だけではなく心身ともに併せて復活されました。それは本日の箇所の直前に「わたしは亡霊ではない」と弟子に語りかけながら、復活を喜ぶ弟子たちから差し出された焼き魚を食べたとの記事から分かります。この箇所での焼き魚とは、ガリラヤ出身の人々が長旅をする折に携行していたお弁当であり、もっとリアルな言い方をすれば旅人が食する目刺しのようなものです。つまりイエス・キリストが正真正銘弟子のもとに帰ってきた証しとなるわざをいたします。さてその次にイエス・キリストは自らが『旧約聖書』に記されたメシアであると宣言します。このときに弟子の心の眼が開きます。これまで弟子を慄かせていた「救い主の受難と十字架での死、そして復活の告知」はようやく喜びのメッセージ、すなわち福音となります。そしてあえて弟子をエルサレムの都へと留まらせ、神の国が訪れるその行く末にいたる伝道の豊かな可能性を述べます。そしてベタニアのあたりまで行かれ、手を上げて表向きには弟子を祝福しながら天に昇るという流れになります。
わたしがなぜ「表向きには」と申したかと言うと、この時点でイエス・キリストによる祝福は、弟子の器を溢れて全世界に及んでいるものだと受けとめたからです。確かにイエス・キリストの姿は、もはやかつての人の子イエスのように地上にはありません。一見すれば「人の子イエスはいなくなってしまった」という深い挫折さえあってよさそうなものですが、弟子はみな神殿の境内に戻り、神をほめたたえていた、とあります。それは、すでにイエス・キリストとの深い関わりが定められているところから来る安心感ではないでしょうか。
これまで弟子は人の子イエスの言葉の意味も、その行う癒しのわざの真意も分からないまま、十字架への道にいたってはほぼ全員がイエスのもとを離れるという無様な姿を晒しました。その遺体をひきとったのはファリサイ派の議員でイエス擁護の立場にいたアリマタヤのヨセフであり、弟子ではありませんでした。その胸に深く刺さるような痛みと後悔のもとにのみ弟子が留まっていたのであれば、『使徒言行録』に記されるところの世界宣教、そして今日まで続くそのわざは起きるはずがありませんでした。
イエス・キリストが世から人の手の及ばなくなるところに行かれるところで授けられた祝福。それはこの争いに満ち、悲しみに満ちた世界への祝福となります。本来は祝福に値するところではないはずのところに及ぶイエス・キリストの祝福はすべての疑いを打ち破ります。そして残虐な衝動、人格を認めない歪みから人を解き放ちます。その意味で申しますならば、福音とは絶えず世にある囚われから解き放たれて、キリストの祝福を週ごとに、日毎に自覚するところから始まるのではないでしょうか。神の愛の深い関わりがそこにはあります。
人は変わり、世は移ろい、教会もまたその姿を少しずつ変えてまいります。そのようなわたしたちが天を仰いで見つめるなかで感じるのは、かつて弟子達もまた同じ姿で頭を上げたという、その追体験です。イエス・キリストの姿が地上より失われてから、弟子はその存在を感じつつ、やがて起きる聖霊降臨の出来事へとその舞台を移します。時にそれは亀裂に満ちている乾ききった大地に潤いの雨が降り、豊かな川の流れとなります。時によってそれは激流によって流された橋に代わって天には虹がかかり、必ず主の平和が訪れるとの約束を示します。沈黙を余儀なくされていた人と人との間に、豊かな語らいが再び芽生えてまいります。誰も好き好んで人を傷つけ殺めるなどの行為はできないものとして神は人を創造されています。その神の良心の種を、主イエスは今も撒いておられます。人の手の及ばぬところへの祝福は、聖霊の働きとして今もなお関わり続けているのです。