―復活節 第1主日礼拝―
―イースター礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
イエス・キリストの復活の物語ほど、それぞれの福音書の個性が浮き彫りにされる箇所はないと言えます。『マルコによる福音書』の最古の写本では復活のイエス・キリストの姿は直接描かれず、扉の破られた墓を舞台に白い長い衣を着た若者の証言が記されます。『ルカによる福音書』ではエマオという村への途上、復活したイエス・キリストはそうとは知らない弟子と対話しながら旅路をともにし、そのあゆみはやがて『使徒言行録』へと引き継がれます。『ヨハネによる福音書』では墓の外に立ち涙を流すマグダラのマリアに姿を現わします。それぞれの信仰共同体のイエス・キリストの決定的な出来事が露わにされます。それでは本日の『マタイによる福音書』の物語はどこに特徴があるというのでしょうか。
それは人の子イエスの墓が総督ピラトの合意のもと祭司長の命令により番兵に厳重に封印された墓である、という前置きです。『マタイによる福音書』ではヘロデ王という暴君のもとで救い主の誕生をなきものとするために多くの幼子たちが虐殺された記事があり、絶えずヨセフとマリア、幼子イエスは世の圧政に苦しむ人々と道筋をともにします。そして十字架での死の後に葬られるその最中にも世の圧政は未だに滅びることなく、表向きにはローマ帝国を味方につけた暴君が勝利したかのように映ります。
しかしその闇に満ち、失意に満ちた静寂は、どのような世の権力でも抗えない力によって打ち破られます。安息日が終り朝日の光に明け初めるころ、大地震が起きたと記されます。その時代には地震とは天地の主なる神のみ可能なわざであると考えられていました。いわば天地もその時代には当然とされていた為政者による圧政も覆されたのです。それが「主の天使」が「天から降って近寄り」「石をわきへ転がした」と今まさに起きている事態として記され墓を封じる蓋が開きます。圧政と権力による封印もこの場面では無力です。これまで『マタイによる福音書』で天使が登場する場面とはクリスマス物語での人の子イエスの父ヨセフの夢の中、そして荒れ野での誘惑を退けた後に仕えるという仕方で描かれましたが、この箇所では「白い長い衣を着た若者」ではなく「天から降ってきた天使」の姿が描かれます。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とは、かつて人の子イエスが山の上で誡めの授与者モーセ、そして神の言葉を預かる預言者エリヤと語らった際に表現される「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記事が重なります。反対に番兵たちは恐怖のあまり震えあがり「死人のようになった」とあります。キリストの復活を前にして世の圧政が完全に無力化された事態が示されます。そしてその場にいたマグダラのマリアと恐らくはイエスの母マリアにこの天使は復活の出来事を語りかけ、弟子に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と、イエス・キリストと弟子の出会いの原点となった場所へと導きます。そして「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」と他の福音書にはない言葉が続きます。復活の謎や畏怖について語る福音書の箇所は多いのですが、喜びを語る場面は本日の箇所に絞られます。人の子イエスが葬られた墓は女性たちには過ぎ去りました。このようなあまりにも非日常の出来事が次々と描かれるなかで、この二人の女性の前に復活したイエス、イエス・キリストがその行く手に立ち「おはよう」と至極日常的な、おそらくは十字架で殺害される前にはいつもそうだったように交わした挨拶とともに語りかけるのです。女性たちも弟子もガリラヤへ赴き、イエス・キリストと語らいます。復活の出来事を前にして無力になった兵士たちは、相も変わらずエルサレムで祭司長から買収され、虚偽申告を強要されます。その姿こそが死に体も同然というものです。神の愛の力はこのように圧政に甘んじる者たちを裸同然にしてまいります。総督ピラトもヘロデ大王もその例外ではありません。
この復活の出来事の証言があるからこそ、出来事そのものから50年ほど経た福音書の書き手の時代の教会に関わる人々は、あまたの迫害にありながらも、この圧政はやがて終わりを告げるとの希望を抱くにいたります。わたしたちもまた、個人の力では如何ともしがたい暴力を伴う政治や不公正な世にあってなおも活きいきとした希望に包まれているものと確信できます。さまざまな身体的な限界を覚えながらも、なおも神の愛の証しを立てることができます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と復活したイエス・キリストはわたしたちに今も語りかけます。絶えずガリラヤの原点に立ち返り、日々いつもともにいる復活のキリストに背中を押されて、主なる神を讃美し、この日を祝いましょう。