―受難節第1主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)
聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)
讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).
21-566(536).21-88(255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
大阪メトロ堺筋線「動物園前」駅9番出口。この出口から地上に出て阪堺電車架線下をくぐりますと、大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」にいたります。かつては日雇い労働者の街とされたこの土地も、今では行政の手が至る所に入るようになり、「ジェントリフィケーション」という問題が生まれつつあります。ジェントリフィケーションとは、概ねもともとは貧しい人たちが寝起きしたり食事したりするというような場所を、その普通の街並みとは異なる様子を逆手にとってブランド化し、企業の「目玉商品」として商標化しやすく道筋を言います。例えば仕事を終えて牛や豚の内臓を炒めたホルモンという食べ物があります。由来は「捨てる」を意味する大阪ことばの「放る」にその名が由来すると申しますが、このお店をマスコミ関係者やYouTube動画で下町グルメ番組に再編してまいります。観光客にはガイドブックにはない「下町グルメ」として喜ばれ、値段も上昇し、その場にいた労働者の人々はいつの間にか姿を消すといった具合です。日当で買ったホルモンを分かちあう時代から、星野リゾートのような高級ホテルの建築に伴い土地が買い占められ、互いに助け合っていたそれまでの絆が、人を豊かにするはずの富によって分断される様を肌身に感じながら、充分な医療も受けられなかったあの人たちはどこに行ってしまったのだろうと時に涙を禁じ得ません。
本日の福音書で人の子イエスが行かれた荒れ野とは、文字通りの荒れ野を越えてさまざまな渇きに満ちた場ではなかったかと推し量るのです。40日間の断食を続けるなかで受けた最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」との声でした。これに対してイエスは「『人はパンで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる』」と『聖書』を引用します。この誘惑は「食」という生物的には是非とも必要な根源的なわざを独占させようという目論みがあるということです。逆に言えば「分かちあい」という態度が欠如しています。次には『聖書』を引用しながら「神の子ならば、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と神を試させようとします。言うまでもなく「大切な人を試す」とは「その人との関わりを疑わせる」こと。誘惑はイエス・キリストに神との関わりを絶ち切ろうとさせます。そして終には「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄を与えよう」とさせます。国々の繁栄の陰に苦しむ貧しい人々や病床にある人々の姿は、神ならぬ者に連れていかれた高い場所からは見えるわけがありません。人の子イエスは語ります。「退け、サタン」と。この箇所で初めて天使が現れて人の子イエスに仕えたと記されます。
この一連の「誘惑」の物語は有名ですが、概して見落とされがちなのはこの荒れ野での人の子イエスの放浪が、自らの意志に基づいている修行のようなものでは決してない、というところにあります。あくまでも、直前の箇所で鳩のような姿で降りてきた「霊」の力、すなわち神の愛の力によって成し遂げられたというところにあります。わたしたちが日々の暮らしのなかで晒される誘惑を人の子として味わわれたイエス・キリストの道筋は、すべて神の愛の力によって背を押されて味わった出来事でもありました。逆に申しあげれば、わたしたちが日頃味わっている恐怖や苛立ちや孤独感もまた、主なる神の愛による導きであるとも言えるのです。公園で炊き出しを求めている人の列があります。その列があるからこそわたしたちはどうにかせずにはおれないと思い、あれこれと人の世の誰の命令にもよらずに食事を届けようとします。ある人に待ち合わせの約束を破られたとしても、憤ってその人との関わりを絶つのではなく「何かあったのだろうか」と心配をします。目を奪われるようなご馳走も結構ですが、いろいろな人の集まる餅つきのほうが楽しくやり甲斐があります。長年複雑だった親族との関わりを捨ててしまうよりも、できるなら次の世代でもよい、せめてひと言話ができればと願います。そのような暮らしの場所でわたしたちはさまようのではなく、イエス・キリストとともにさまざまな誘惑に晒されながらも感謝しつつ活かされ、神の愛に支えられているのです。
分断の声ますます強まる今の世にあって、わたしたちが礼拝を尊ぶのは何よりも「神の言葉一つひとつで生き」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との教えを、各々の賜物に則して歩みたいと願うからではないでしょうか。主なる神はわたしたちがどのような誘惑に晒されても、どのような惨めさを味わおうとも絶えずともにいてくださり、イエス・キリストの姿を通して圧倒的な恵みとともにその実在をお示しになります。