―受難節第2主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節
聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節
讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
その時代の正統派ユダヤ教徒、もっといえばその時代精神を司る自負にあふれた古代ユダヤ教の指導者の群れであるファリサイ派の人々はこの癒しの出来事を認めません。おそらくは自分たちの知る癒し人やその時代の医者がことごとくその治療に失敗したか、あるいは現在よりもさらに輪をかけて心身の壮健さが追求された時代です。癒された人は「見えず、話せない」という特性だけで、もはやすでになにがしかの呪われた者や穢れた者として扱われたことでしょう。それは次の言葉に凝縮されています。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。騒ぎ立てるファリサイ派の者たちは、この音のなく、光もないままに放置されてきた人を助けもせずにやかましく騒ぎ立てるばかり。そして振りかざすのは、荒れ野で人の子イエスを試みた悪魔と同類の悪霊の頭ベルゼブル、俗には巨大なハエとして描かれる暗黒の存在であり、強い力が弱い力を排除するという道筋でしかイエス・キリストの癒しのわざを理解できません。その態度に向けてイエス・キリストはどのように反論するのでしょうか。
それは一見すると実に世俗的な譬えから始まります。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成立っていくだろうか」。人の子イエスが指摘するのは、力の論理と排除の論理では癒しの出来事は決して生じないところにあります。イエス自らによれば、窃盗団は力尽くで人の家に押し入ります。しかし結局はその動機が「奪い合いと陥れ」にあります。ですからついには盗品の奪い合いとなり、集団そのものが瓦解していく状況にも似ています。そのうえで、人の子イエスは次のように語ります。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところへ来ているのだ」。イエス・キリストは横槍を入れてきたファリサイ派を決して否定しません。それはファリサイ派の言葉とは、全く異なる次元から発せられている教えだからではないでしょうか。
ファリサイ派の人々の言葉は「否定」に終始します。否定の言葉からは何も生まれず、現状を変えもせず、いのちを育てもせず、交わりを広げようともいたしません。他方でイエス・キリストの言葉は、暗闇に閉ざされた名も無い人を癒すというわざに拠って立ちます。喜びの分かちあいがそこにはあります。『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの愛のわざへの否定を集約すれば、それは最終的には荒れ野での誘惑における試みの声と同質のものとなります。しかし他方でイエス・キリストの行う癒しのわざへの喜びと感謝の声は、神の愛の力、則ち神への讃美のわざ、神の愛による統治を待ちつつどのようなところにいてもいのちを祝福する力に根ざしています。片方は他を廃し、多様性を認めず、収奪の果てに自ら朽ち果てて倒れていくのであって、草木も生えないと見捨てられた土から芽生える麦のような生命力はそこにはありません。
ファリサイ派の人々の言葉は「否定」に終始します。否定の言葉からは何も生まれず、現状を変えもせず、いのちを育てもせず、交わりを広げようともいたしません。他方でイエス・キリストの言葉は、暗闇に閉ざされた名も無い人を癒すというわざに拠って立ちます。喜びの分かちあいがそこにはあります。『マタイによる福音書』では、イエス・キリストの愛のわざへの否定を集約すれば、それは最終的には荒れ野での誘惑における試みの声と同質のものとなります。しかし他方でイエス・キリストの行う癒しのわざへの喜びと感謝の声は、神の愛の力、則ち神への讃美のわざ、神の愛による統治を待ちつつどのようなところにいてもいのちを祝福する力に根ざしています。片方は他を廃し、多様性を認めず、収奪の果てに自ら朽ち果てて倒れていくのであって、草木も生えないと見捨てられた土から芽生える麦のような生命力はそこにはありません。
東日本大震災が様々な問題を残しているだけでなく、パンデミックの時代を経て、食糧不足と世界大戦の危機という、わたしたちの尺度の通じない「グレートリセット」と呼ばれる時代。その今でも、イエス・キリストの愛は世の分断を乗り越えます。だからその幾度も、何十編も、何百編もそれが裏切られ、苦しみに遭おうとも、なおその愛はわたしたちを包もうとしてやみません。荒波を乗り越える度ごとに、わたしたちはイエス・キリストの愛の証し人として立たされています。そう、見えず、聞こえず、話せない三重苦に苦しんできたこの人を、イエス・キリストのもとに連れてきた、文章が受け身の文体で描かれているがゆえに、その存在すらおぼろげな、これまた無名の人のように、です。分断の叫びの中に、わたしたちは神の愛による一致を先取りしています。