2023年3月17日金曜日

2023年 3月19日(日) 礼拝 説教

    ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「昔も今も愛を貫く神とわたしたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 28~36 節
(新約聖書 123 頁).

讃美= 66,270,544. 

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 イエスがひとり祈っていたとき、ともにいた弟子に「あなたがたはわたしを何者だと思っているのか」と問われ、ペトロは「神からのメシアです」と答えたという記事。この記事がすでに記されていると踏まえながら、本日の箇所を読み解いていきます。すると凝縮された内容を本日の御言葉が訴えているとおぼろげながらに分かります。ペトロのメシア告白、則ちイエスが「救い主」であるとの告白は、ペトロ自らの権威を象徴するとの理解も確かにありますが、丹念に読みますとその理解は福音書が伝えようとしていた内容と大幅にずれているように思えます。それはペトロの告白の八日後に起きたとされる「山上の変容」の物語に記される通りです。イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登ります。イエスは祈っておられるうちに、服は真っ白に輝き、モーセとエリヤが現われて語りあうにいたりました。語りあいの内容は人の子イエスがエルサレムで遂げる最期でした。ペトロは猛烈な眠気に襲われながら、輝くイエスの姿と二人の姿が目に入り、山小屋を三軒建てようとよく分からないことを申します。「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」。この幻はイエスがまさしくキリストであることを弟子たちに示しているのですが、ペトロはボタンを掛け違えたような反応しかできていません。モーセは『旧約聖書』で十戒を始めとした誡め『律法(トーラー)』を象徴し、エリヤは預言者の代表として『預言者の書(ネビイーム)』を暗示しており、したがって『旧約聖書』に記された神の救いの約束の完成としてイエスが描かれてはいるものの、その最期である「十字架での処刑」こそが、その約束が始まる時であるとのところまでにはペトロの理解はまだ及んではいません。ペトロの理解は他の弟子同様に実に素朴でした。「ローマ帝国の支配から解放してくださる英雄」としての救い主。それがペトロのメシア理解であるならば、イエス・キリストに課せられた苦難に満ちた救い主のあゆみは心にも浮かばず、ただただイスラエルの民のみが救いに預かるという限定的な救いに留まるほかなかったでしょう。救い主の十字架での死と復活を幾度も否定する。それがペトロのむき出しの姿です。

 それではイエス・キリストの救いに連なるのはどのような人々であったのでしょうか。もちろん、福音書の物語で人の子イエスに出会った人々も洩れなかったことでしょう。目の見えない人、聴覚を失った人、手足の動かない人、悪霊にとりつかれたと決めつけられた人々。その時代のユダヤ教の共同体から排除されたこの人々に救いが及んだのは間違いありません。しかし『新約聖書』は言うに及ばず『旧約聖書』にもすでにその時代のユダヤ教徒以外の者にもまた神の愛がそそがれ、決して救いの蚊帳の外には置かれてはいないと明言されます。例えば『創世記』には「神はご自身にかたどって人を創造された」とあるだけに留まらず、「ソドムの滅亡」の物語では、古代都市ソドムの滅亡から辛うじて逃れたロトと二人の娘が、残酷かつ異様な体験の衝撃からか男女の関わりを持ち、それぞれ男児を授かるというエピソードが盛り込まれます。ただし、授かったこどもは、遠くダビデの先祖となる女性ルツの属する民の系譜となり、こども自らには決して罪はないとの理解が記されます。ペトロがこの記事を心に留めていたかは分かりません。しかし穢れた系譜に属するとされた人々にこそ救いが及ぶとの理解は画期的。「人生の闇」にも光は必ず射すのです。

 言うまでもなく、モーセは自ら「乳と蜜流れる土地」カナンの地には入れずに、またエリヤは絶えず神に逆らうイスラエルの民から遠ざけられるという、後の世には誉め讃えられながらも、物語を味わえば日本語でいう「畳の上では死ねなかった」人々ばかりです。イエスと語らう『律法』の象徴が高名な律法学者ではなく、『預言者の書』の象徴が時の賞賛を浴びた人ではなく、その時代の王族からいのちを狙われた預言者であるところからしても、キリストの苦難の頂点が示されているのは明らかです。さらに今なおその救いのスケールの大きさにわたしたちは圧倒されるばかり。本日の聖書箇所の書き手も踏まえた『マルコによる福音書』で最初に「この人は本当に神の子だった」との告白は、十字架刑の現場の責任者であるローマ軍の百人隊長から発せられます。

 わたしたちは「『旧約聖書』に記されているのは裁きの神」「『新約聖書』に記されているのは愛の神」だと誤解している節があります。けれども福音書を始めとした『新約聖書』の書き手集団は徹底的に『旧約聖書』を味わいながら、異なる民、異なる時代に活きいきと救いのメッセージを紡ぎ、それは神の遣わしたキリストをどの角度からも示します。時にわたしたちは『聖書』が「分からない」と呟きます。しかしその「分からない」という事実には、神の愛による養いの「伸びしろ」が隠れています。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」。イエスの不当逮捕の直前、ゲツセマネの園での態度と同じように眠気に襲われていたペトロ。しかしペトロがその眠りから醒めるとき、わたしたちにも目覚めが起きます。昔も今も時代を問わずわたしたちを愛さずにはおれない神。そのような神がわたしたちを愚かなまでに信頼して遣わされた救い主イエス・キリスト。神の愛は「愚かなまでの信頼」という姿をもとります。時に世の常識からは遠ざけられさえもする神の愛こそが、わたしたちの前にそびえる壁を打ち砕くのです。

2023年3月10日金曜日

2023年 3月12日(日) 礼拝 説教

    ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
説教=「一人ひとりのはかり知れない尊さ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 21~27 節
(新約聖書 122 頁).

讃美= 301,452,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  堅いつぼみが少しずつ膨らむように、コロナ禍で規模縮小を余儀なくされていた公立学校に始まる地域の公共の諸行事も新型コロナ感染症流行以前の状態に戻そうとしています。用心深くではありますが、少しずつ肩の荷が軽くなるようでもあります。
けれどもこの新型コロナウイルス感染症でメディアから放置されているのが2011年の東日本大震災の被災地。津波によって壊滅的な打撃を受けた上に、東京に電力を供給する福島第一原子力発電所の1~3機の炉心溶融が起き、少なくとも名古屋市と同程度の広さの土地から人々の住まいが奪われました。機会ある毎に地元の人々は懸命にその後の自然災害を克服しながら自宅の農地を回復するべく里に戻っての作業に懸命。しかし廃炉の作業には少なくとも2051年まで必要だとの声もあります。発電所の免震重要棟と東京の電力会社での会議では「炉心の腐食はもったいないから淡水で冷却できないか」「どの道ふっとぶ」といった地域を無視した無責任な声がはっきり聞き取れます。卒業式を終えて震災に襲われ、住まいや生きる手立てまで奪われた人々の痛みが、たった12年で癒されるとは誰も考えてはいないでしょう。「補償金が出たのだからよいではないか」との心ない言葉が被災者には今も向けられます。けれども無気力に見える人々の姿は、これまで生き甲斐だった仕事を放棄するほかなかった絶望を物語っています。「最後は金目」との実に心ない言葉。一人ひとりの尊さを支える安全性を補償額に置き換える組織の体質は今も変わりません。  
確かに人を数字に変えて浸る悦楽は麻薬のようなもので、それは教会にも及んできます。数字の変化に示される課題は確かに重要です。しかし数値は氷山の一角で、その数値にいたった文脈を読み解かないと伝道どころか数値そのものの改善にすら及びません。『花は咲く』という歌が歌われましたが、こぶしの花咲く故郷に帰ったところで暮らす術がないという人は絶えないのです。
  
  ところで『旧約聖書』『新約聖書』で描かれる神はご自身のわざとしては人を数で勘定されません。その時代にはわたしたちが用いるアラビア数字が存在しなかったというだけでなく、一人ひとりが神の似姿として創造されているとの理解に立つからです。「神はご自分にかたどって人を創造された」という『創世記』の短い言葉は、神にかたどって創造されたのは人間すべてを指すのであり、それは特定の民や身体的に優れた特性を備えた人々、経済界層や身分に囚われていないという意味でまことに画期的な着想です。しかし他方で人間が作り出した社会なる組織は、神のお造りになった世界とは大幅にずれ、その歪みの中でわたしたちは苦しむのです。「神からのメシアです」と答えた使徒ペトロのメシア理解でさえ、それは独善的であり破れに満ちていました。その後に主イエスが語るのはイエス自らに襲いかかる苦しみと排斥と十字架による殺害です。そのような社会のありようを人の子イエスはその身に映した上で語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。そして最後には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまで決して死なない者がいる」。

  「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何になろうか」。何かを自分のものにしようと振る舞うわざを、かつて悪魔は荒れ野でイエスに唆しましたが、そのような事柄よりも肝腎なことがあると語ります。それはキリストに従うことだというのです。それは決して格好のよい体裁ではありません。心ない言葉を浴びて傷ついたとき、日を置かねば涙さえ流せないような別れを味わったとき。もうやめたいと思ったとき。そのようなときのなかで、キリストに従う道が拓かれます。前進するのもよいし、後退するのもよいし、遠回りするのもよいし、立ち止まるのも可能です。問題はその節目に、キリストがともにいてくださるとの祈りと確信がともなっているのかということなのです。希死念慮にとりつかれても神から託された使命を果たした預言者の物語さえあります。そうであれば今のわたしたちもまた、キリストに従うわざをかけがえのない日々の中で果たしうるのではないかとの希望が生まれます。その希望は必ず実現します。さらに「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまで決して死なない者がいる」との言葉は、『ルカによる福音書』の文言からわたしたちに向けて発信されているメッセージでもあります。荒唐無稽な文言ではなく、イエス・キリストのこの言葉がこの地上から消されないかぎり(そしてそれはあり得ないことです)、この言葉に触れた者は誰であれ、身体の滅びとしての死を恐れない者に変えられてまいります。身体の滅び以上の死を『聖書』はわたしたちに語っています。それは神との関係を絶ち、そのあゆみを「忘却の穴」へと捨ててしまうことです。しかしそのような所業は決してわたしたちにはできはしません。見せかけの全能を誇ったローマ皇帝でさえ不可能だったのです。数字は尊い道具であり重要です。しかしいのちや生き甲斐には代えられません。全世界を得るよりも大切な事柄をわたしたちは知っています。

2023年3月3日金曜日

2023年3月5日(日) 礼拝 説教

   ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「愛は人の徳を建てる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』11 章14~23節
(新約聖書 128 頁).

讃美= Ⅱ177,300,544.
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動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 人生のライフステージが大きく変わる季節。三月とはそのような月でもあります。この変化に心身がついていけない方々も多いと聞きます。1977年に設立された「日本いのちの電話連盟」は、渦巻く悩みを抱えた人々の声に耳を傾ける働きとして知られています。今よりも家庭内暴力や心の病に器の狭い対応しかできなかった時代、受話器から聞える声には希死念慮からあふれてくる叫びもあったことでしょう。その時代、伝統を重んじるところの教会の中には『聖書』にそのような記事がないのにも拘わらず「自死」を本人の罪の結果として決めつけるという、悶え苦しむご遺族の辛さを蔑ろにする態度をとり続けた過ちがありました。

 しかしそのような伝統に反して『旧約聖書』には希死念慮の塊のような預言者が描かれます。わずか4ページに過ぎない『ヨナ書』に登場するヨナがその人です。ヨナは戦によってイスラエルの民を大勢死に追いやった大国の都ニネベに神の救いの言葉を伝えるべく派遣されます。ニネベの住民はヨナにとっては不倶戴天の敵。ですから神の派遣に逆らい船に乗れば嵐に襲われ、慌てる船員に身の上を打ち明けた結果、波を鎮める犠牲として荒ぶる海へと放り込まれます。その後ヨナは大きな魚に三日三晩呑み込まれた後、陸地に吐き出されニネベに入り神の言葉を伝えます。ニネベの人々はその声に応じて神を信じ、王から民、すべての家畜にいたるまで断食し、悪の道から離れられるよう熱心に祈ります。その祈りは神に届き、都は滅びから逃れますが、問題はニネベの民よりもヨナ自らの態度。ニネベの救いに大いに不満であったヨナが神に訴えるには「主よどうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。「生きているよりも死ぬ方がましです」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」。かけがえのない家族や仲間を苦しめ、そのいのちを奪いながらも、神の前に悔い改めた異国の民が滅びを免れた、という出来事をヨナは受け容れられません。この短い物語には、人の子イエスの「敵を愛しなさい」との教えの尊さと困難さにも重なるところがあります。しかし「わたしの命をとってください」と神に叫ぶヨナに悪霊がとりついていると指摘する人はどこにも描かれません。むしろ神の愛が、都市の破壊と滅亡を望む預言者さえも用いて救いを実現させるところに神の愛と赦しが描かれます。大帝国アッシリアの都ニネべの王、そしてその民が赦されることで、ヨナもまた赦されるのです。

 他方で『ルカによる福音書』の本日の箇所では、人の口を利けなくする悪霊を追い出す人の子イエスとならび、イエスに「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と難癖をつけたり、イエスを試したりする人々をも描きます。主イエスが答えるには「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なりあって倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張した者は、より大きな力をもつ悪霊で人の子イエスが小さな力の悪霊を追い払ったとでも考えたのでしょう。人の口を利けなくする悪霊を追い出したイエスにこの批判者が見たのは、単なる「力」でしかありませんでした。しかし強引な考え方やとりくみでは、利けなくなった口を開き、交わりに加わっていくという希望と喜びをもたらすのは不可能です。希望や喜びは「悪霊の力較べ」とは何の関係もありません。イエス・キリストは語ります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。「口を利けるようにする」との交わりを新たにするわざを誤解し、妬む人々のところにも「神の国はあなたたちのところに来ている」と語るイエス・キリスト。抱えるものが闇であれ悪霊であれ、すべてを巻き込んで神の愛の渦へと導いているようにも読みとれます。神がイスラエルと敵対したニネべを赦したように、ヨナはニネべの王や民を憎むほかないヨナ自身にもその赦しのわざが及んでいると、深い憤りからこみあげる希死念慮の中でも感じたことでしょう。さらにはイエス・キリストは、口が利けず、喜びだけでなく悲しみさえも訴えられなかった人を話せるようにする奇跡を行ないました。それはこの癒しのわざを蔑む人々にも、神の国の訪れを告げ、その頑なな心を開くわざにも繋がりました。悪霊とは、具体的にはすべての関係を絶つ「閉じこもり」と示すとの考えがありました。この者たちの悪霊を、イエス・キリストは見事に追い出し、解きほぐしたと言えます。そこには相手の破壊ではなく、そのあり方を新たに建てるわざがあります。

 さまざまな報せのみならず、わが身に降りかかる不条理に対して深い憤りを覚えもするわたしたち。しかし『聖書』は神の愛が赦しというかたちをとると語ります。もちろん「なあなあで済ませば」よいのではありません。決して消せない痛みをともにし、関わる人それぞれが悶え苦しむ呻きに耳を傾け、反対に「なぜそうせずにはおれなかったのか」と問いかける相手の存在もまた、まずは受けとめて、同じ悲しみが広まらない手立てを祈り求めるあり方につながります。受難節第2主日を迎えました。キリストの苦難に満ちた血と涙の道とは、想像を絶する神の赦しの熱量をも示します。赦しの熱さに触れて新しい一週間を始めましょう。

2023年2月23日木曜日

2023年2月26日(日) 礼拝 説教

   ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「誘惑を恐れずに世をあゆむ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』4 章1~13 節
(新約聖書 107頁).

讃美= 238,280,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  福音書の物語には、人の子イエスが出会う人それぞれの痛みや悲しみを癒し、新たな道へと送り出す物語が描かれてまいります。当時は再起不能であるばかりでなく穢れに溢れた人として扱われた者、大人社会から見捨てられたところのこどもたち、当時は悪霊にとりつかれたとしか表現できない、現代でいうところの心を病んだ人々を治癒させるといった、癒しの奇跡物語が数多く記されています。福音書の書き手はそれらの癒しの出来事をイエス・キリストの十字架での受難の出来事と深く関連づけ、救い主がそのような人々の苦しみや痛みをともにし、分かちあったとの理解に立って物語を進めます。なぜ救い主が苦しみの果てに十字架で殺害されなくてはならなかったのか、との問いの中で、これらの癒しの物語が、ただの癒しの話に留まらず、キリストを通して注がれた神の愛のわざとしてかけがえのない特性を帯びることとなります。

  さて、いずれの奇跡物語でも描かれる、人の子イエスによる癒しの奇跡の場合、イエスは癒そうとする人をわが身に引き寄せて、その痛みや苦しみをわがものとしようといたします。救い主イエスとその時代に罪人と呼ばれた人々との極めて近い間柄が前提とされます。時にイエスは涙を流されながらその悲しみに寄り添い、悲しみを喜びへと変えてまいります。さらにいえば、人の子イエスとわたしたちの間には深く共鳴するところがなければ、その物語はなかなかに分かり辛くなります。イエスは加持・祈祷を行う行者として人々を癒すわけではないからです。

 イエス・キリストが救い主であるにも拘わらず、いや救い主だからこそわたしたちの痛みと共鳴しつつその源を見通す力をどこで示されたのかを示す物語。それが本日の「荒れ野の試み」の物語です。聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった後に、人の子イエスは四十日の間悪魔から誘惑を受けます。「神の子ならこの石にパンになるよう命じたらどうだ」、その後にはイエスは一瞬のうちに世界のすべての国々を見せられ「もしわたしを拝むなら、みな国々の一切の権力と繁栄はお前のものとなる」とのささやきを受けます。そしてついに悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせ、その時代の『聖書』を引用されてまで神を試すよう唆されます。しかしこの誘惑毎に人の子イエスは「人はパンだけで生きるのではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある、と、悪魔による弄びとは異なる地平で『聖書』を神の言葉として語り、この誘惑を払い除けてまいります。悪魔の誘惑に共通するのは独占と「分かちあいの拒否」、そして「神を試す」という言葉に隠された「神への疑い」の勧めです。哲学的にではなく日常的な暮らしと不可分なその特質は、こうした誘惑が食をめぐる誘惑と切り離せないところからも明らかでしょう。しかしまだ問題が今のわたしたちにあるとするならば、この誘惑を終えた人間イエスを英雄として礼賛する、または人の子イエスが修験者のようにこの誘惑を困難な修行を克服したかのように、完結したお話としてまとめてしまうというお手軽な理解にも潜みます。英雄イエス礼賛とは、わたしたちの暮らしとは関わりなくあたかもショーを観るかのようにイエスに万雷の拍手を送りながらも他人事として済ます態度へとつながり、修行としての誘惑の克服理解とは、イエスが荒れ野で目指したのは救い主としての権能を授かるための自己実現の努力に過ぎないとする誤解です。

  本日の箇所はいずれの誤解とは異なります。それは1~2節に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を『霊』によって引き回された」との文に明らかです。イエス・キリストは自ら進んでこの荒れ野にやってきたというよりは、まさしく自らにも予期しない仕方でこの荒れ野へと導かれ、そして諸々の誘惑に深く身を晒しながら神の御言葉により辛うじて乗り越えていったという首の皮一枚のところにあります。だからこそ食の誘惑や富や繁栄に囚われる誘惑、そして神を疑う誘惑から決して自由でなかった群衆一人ひとりを癒すだけでなく、今なおわたしたちを翻弄し、判断を鈍らせる様々な誘惑を源とする不安や恐怖に、神の愛の力を通して打ち勝ってくださるのです。イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を授かって始めて出会ったのは癒しを必要とする人々ではなく、悪魔の誘惑であったというところに、リアルにイエスに出会った人々の抱えた困難、その出来事を口伝で聞きつつ『福音書』を書き記した集団、そして今この場にあって御言葉を味わうところのわたしたちの現実が見据えられています。その上で、苦難の中で誘惑に勝利したイエス・キリストが、実はわたしたちの日々の思い患いや唆しと決して無縁ではないどころか、無数の人々の癒しをもたらした事実と関係を「聖霊」また「霊」との言葉は示します。

 今わたしたちは時代の大きな谷間の中にいるようです。軽々しく人のいのちのありかたに殺人教唆のような仕方で関わるコメンテイターや自称学者たちの言葉。しかしわたしたちはその言葉に耳を貸す必要は全くありません。また反応するのも時間の無駄です。誘惑に勝利する神の力は、イエス・キリストを通してわたしたちに注がれています。神の福音に心から信頼しましょう。

2023年2月17日金曜日

2023年2月19日(日) 礼拝 説教

   ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ひもじさの中で起きた神の奇跡」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 10~17 節
(新約聖書  121頁).

讃美=239,316,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 このところ幾度も寒波とも呼べる寒さがあたたかな陽射しの隙を狙うかのようにやってきます。そんな日にはうどんのような汁物が食べたくなります。幼いころ、このような日の食卓には水団が出ました。こどもの健康を慮ってか具も多かったように思います。そのような熱々の汁物を食べながら聞きかじりの知識で祖母に「昔も水団食べたの、どんな味がしたの」と尋ねますと「こんな立派なものじゃないよ」との返事。目の前のどんぶりにある水団しか知らないものですから「おいしかったの」としつこく聞くうちに、普段は温厚な祖母から震える声で「お前は本当の飢えを知らない」と叱られた記憶があります。

 祖母の弟は学徒出陣でインパール作戦に従軍し、ミャンマーで戦病死したこともあってのことでしょうか、それでも外地だけの話に留まらず、内地で戦災孤児を襲った飢餓は想像を絶したと聞いています。飢餓は疫病の流行となり、戦争で親を亡くしたこどもは一方的に棒で打ちたたかれ、トラックの荷台に載せられ、檻に無理やり詰め込まれるという、今からは考えられない待遇を受けていました。飢餓が進んで盗みや略奪にも及ぶのは大人です。こどもだけを標的にした当時の国の対応には憤りを禁じ得ません。

 本日の福音書の物語は、『聖書』を味わう人にとってはおなじみと言ってよい「五千人の共食(きょうしょく)」と呼ばれる物語です。この物語は『新約聖書』に納められたすべての福音書に記載されています。本日の箇所で際立つのは「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」との記事です。この一文だけでイエス・キリストを追いかけてきた無名の群衆の切羽詰まった具合、そしてその群衆の中には治療が必要であったのにも拘わらず、これまで諦めの中で放置されてきた人々の姿が強調されています。それにも拘わらず、ひもじさの中に置かれ、慢性化した栄養不良の中で罹患したかも知れない病を抱えながらも、人々が騒ぎを起こした様子は一切見られません。すでにこのとき、群衆は迎えるイエス・キリストを通して与えられる神の愛につつまれ、落ち着きを授かっていたのかも知れません。それではこの落ち着きに気づかず、うろたえるばかりであった者は誰かと言えば、ほかならぬ弟子達でした。9章ではイエスから「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられた」はずの弟子たちは群衆を前にして日が傾き始めたのに気づき、イエス・キリストに耳打ちします。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです」。弟子のささやきは、目の前の群衆をちりぢりにさせることが目的。各々事情があるにも拘わらず、宿と食べ物について関心を払おうとはしません。イエス・キリストから授けられた権能をどこへ忘れてきたというのでしょうか。群衆からすればもう二度と主イエスに会えないかも知れない中で集まっているという切迫感に全く無頓着です。だからイエスは弟子に語りかけます。「あなたがたが食べ物を与えなさい」。答えは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。「買いに行かないかぎり」との言葉から分かるのは弟子が群衆の飢えを満たすのは、結局はお金であるとの錯覚に囚われているところです。お金がないということと、食べ物がないという事態は似て非なるところがあります。いくらお金があったところで食べ物がなければ身動きがとれない苦さを知る世代は今昔を問わず数知れないのにも拘わらず、弟子は未だこの錯覚から抜け出せてはいません。イエスは弟子に人々に五十人ずつ組にして座らせるよう命じます。互いの顔が分かり対話が可能となるギリギリの人数です。そして五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを献げ、裂いて渡して群衆に配らせたとあります。携帯食のその食事は想像以上に貧しかったことでしょうが、それでも神に感謝します。その結果何が起きたか。現代のわたしたちの理解にふさわしく言えば、落ち着きの中で人々は、自らもっていた弁当代わりの粗末な食事を、互いに分かちあったのかもしれません。奪い合うのではなく分かちあい、満たされたというのです。弟子はこの奇跡に圧倒されたことでしょう。それはうろたえる弟子も満たしてあまりある出来事だったのです。

 ウクライナ戦争やシリア・トルコの地震の現状を知るにつけ悲しむほかありませんが、報道から捨てられたような扱いを受けている地域があります。アフガニスタンです。米軍の撤収後再びタリバンが実権を握っているとの報道が流れます。それでも希望の報せを耳にします。2019年に銃撃を受け死亡した中村哲医師のその後、現地の人々はその志を引き継いでさらに農地を広げています。そして原理主義に立つ過激派のタリバンが、殺害された土地の近くに、写真入り顕彰碑を昨年建設したとのこと。「政治的な立場にかかわらず、人々の中に中村医師への特別な思いがあるのでしょう」と現地の医師は語ります。ひもじさの中で落ち着きを授かり、交わりを深めたその歴史はテロ組織の思いすらも変えていきます。貧困や不景気と深く関わるわたしたち。不安や衰えを知りつつ神に落ち着きを授けられ、誰かを支えているのではないかと、群衆の一人としてイエスの祈りに応えずにはおれません。

2023年2月8日水曜日

2023年2月12日(日) 礼拝 説教

  ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ゆるしに秘められた神の力」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 17~26 節
(新約聖書  110頁).

讃美=234 A,269,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 深夜から未明にかけて響く、救急車のサイレンを聞くと、目がさえて眠れなくなるときがあります。厳冬期から春先にかけて、循環器系統に病変がなかったかとしばらく目を覚まし、電話が鳴らなければ安心して眠りに就くという季節の最中です。現代では医学や医療が進歩し、その後のリハビリなども含めて後遺症は以前よりは軽度となったとは申しますが、それでも当事者からすればそれまでのように身の動きがとれなくなります。辛くないはずがありません。言わんや、日々の糧を得るため今以上に身体を用いなくてはならなかった福音書の描く世界で、今で言うところの「適切な医療措置」は実に困難を極めていたことでしょう。

 人の子イエスの癒しのわざを耳にして「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレム」からその時代のユダヤ教の指導者層、つまりファリサイ派や律法の教師の検分を受けることとなります。しかしわたしたちの瞼には、そのような冷たい眼差しは一顧にせず、ひたすら病人の癒しを行う人の子イエスの姿が浮かびます。その時代のユダヤ教の理解では「病」とはモーセの誡めから隔たったところに身を置くことにより罹患するものであり「穢れ」でもありました。そしてそれは共同体からの排除という孤立を伴うものであり、家族や親族との交わりでさえ損ないかねない刺として、人々を苛んできました。その痛みを人の子イエスは分かちあい、癒し、集う人々に交わりの回復をもたらしていました。

 そのような中、ある男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうといたします。脳の重度の機能障害を示す中風患いの人は、決して万全とはいえないどころか、その時代の医療をめぐる諸事情の中で、おそらくはイエス・キリストのあゆみを風の便りに聞いて、遠路運ばれてきたこととなります。近場に暮す人であれば、人垣に苛まれることもなく癒されたことでしょうに、人々は無情にも自らの癒やしに精一杯で床に運ばれてきた、身動きのとれない病の人には無関心です。残念ではありますが、この癒しの場所にも治療の優先順位と申しましょうか、「癒しのトリアージ」を受けてしまったのです。「床」とありますが、実際はもっと素朴な戸板に寝かされて運ばれてきた、というのが精一杯ではなかったかと思われます。一瞥されながら「この人が癒されたところで何ができよう」との心無い眼差しも注がれていたかも知れません。

 しかしこの人は決して一人ではありませんでした。この中風患いの人を戸板に乗せて運んできた、少なくとも四人の男性がいます。「何とかしてこの人垣を乗り越えなければ」との決意のもと、癒しが行われている家屋にのぼり、その天井を剥がして戸板ごと吊り下ろすという行動に出ます。紙芝居や絵本では感動的な場面かもしれませんが、その場に居合わせた人々からは異様に映り、さまざまな咎め立てや不平が出たとしても不思議ではありません。しかし男性たちには、ここまで来て引き下がりはしませんでした。何が何でも人の子イエスに癒してもらわなくてはこれまでの労は水泡に帰してしまいます。どんな侮辱も罵声も男性には耳に入りません。ただ目指すのは今そこにいるイエス・キリストの姿。このチャンスを前にして男性らは引き下がりませんでした。

 主イエスが観たのは戸板に寝かされ吊り下ろされた患者の姿だけではありません。「その人たちの信仰」、つまり懸命に縄を吊り下ろしている人々も含めてキリストは「人よ、あなたの罪は赦された」と伝えます。戸惑うファリサイ派や律法学者。そしてわたしたちもまた戸惑います。「『あなたの罪は赦された』と言うのと『起きて歩け』と言うのとどちらが易しいか、とあるからです。なぜ主イエスはこのように語られたのでしょうか。その解き明かしの鍵は『ルカによる福音書』17章20節にあります。ファリサイ派の問いに、イエス・キリストは答えます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。この箇所で注目すべきはイエスを理解するためにではなく、どちらかと言えば詰問しに訪れたようなファリサイ派にさえイエス・キリストはこのように答えているのです。戸板に寝かされた中風患いの人物をただ見捨てなかっただけでなく、その治療のために時と労力を献げた男性をも含めた交わりをしっかり受けいれたキリスト。この箇所には、神の国のモデルを問う初代教会の声も響きます。これを「赦し」と言わずして何と表現するのでしょうか。

 日本社会の常として「人に迷惑をかけないようにして生きる」というあり方があります。しかしこの社会通念は自己責任論に進展する危うさがあります。想定外の出来事や齢の積み重ねに従って、わたしたちには「迷惑をかけないで生きる」のが実に困難だと実感します。本当のところ迷惑をかけずにはおれません。しかし「迷惑をかけない」との言葉に潜む残酷さや傲慢さを、イエス・キリストは神の愛による、そして祈りによる「赦し」「受け入れる」わざによって打ち砕き、病を癒されました。知られざる神の愛の輝きがあります。仲間の労によって、イエス・キリストに癒された中風患いの無名の人は「寝ていた台を取りあげ、神を讃美しながら」家に帰ったとあります。時に迷惑をかけあい生きるわたしたち。神の恵みへの感謝の応えとして一歩を踏み出しましょう。

2023年2月2日木曜日

2023年2月5日(日) 礼拝 説教 (この日より、会堂での対面式の聖日礼拝を再開します。)

 ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
この日より通常礼拝を再開します。


説教=「神さまの野菜を上手に育てる秘訣」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』8 章 4~15 節
(新約聖書  118 頁).

讃美=265,536,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「翠玉白菜」という彫刻品が、台北市の国立故宮博物院にあります。高さ19センチほどの手のひらほどの大きさながら、翡翠をバッタとキリギリスがとまった白菜のかたちに刻んだ名品。清朝に嫁いだ妃が持参したものとされ、台湾を代表する美術品だということで、値段もつけられないほどのお宝だとのことです。

 しかし一方で、わたしたちはこの「翠玉白菜」でも及ばない宝を授かっています。それは時に虫に食べられた穴もある本物の白菜です。白菜はアブラナの仲間で涼しい気候を好みます。しかも種まき以前によい土を備えるため耕しておかなければなりません。しっかり根を下ろせるのか、土のpHはどれくらいか、水はけがよいのか水もちがよいのか、肥えた土がよいのか痩せた土がよいのか、マルチを敷くべきか。いろいろと思案した上で手を入れてみたところで、自然災害も含めた大自然の動きにはわたしたちにはどうすることもできません。「委ねるしかない」という人の手の及ばない真っ白な「余白」が、第一次産業には必ずつきまといます。そしてその「余白」に人間が手を出そうものならば、却って飢餓や環境破壊に繋がる場合もあるというものです。

 今よりももっと作づけを自然のなすままに委ねるほかなかった福音書の描く世界には、農業や漁業の譬え話が耳を傾ける人々には最も響いたのだと思われます。方々の町から出てきた大勢の群衆のそばで、次の譬えを人の子イエスは語ります。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。続いて譬えを用いて話す理由が語られた後に「種」が神の言葉を指すこと、道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い土地に落ちた種が何を示すかが語られます。『ヨハネによる福音書』を除く他の福音書にも記載される有名な譬え話ですが、本日の箇所に付加されているのは「道端に落ちた種」が「人に踏みつけられ」との言葉とともに記されているところです。つまりこの箇所は他の福音書にもまして、人の世の様々な横やりが、神の言葉の証しにさおを差していくと語るのです。わたしたち同様、『ルカによる福音書』に記される世界で、教会の交わりに連なる人々は世の様々な誤解や妨げに遭っていたことが想像されます。

 しかし、以上のように、神の言葉の証しと、その証しに連なる人々にとって、神様との関わりを保ち続ける上での障りを挙げればきりがありません。「後から誘惑やつまずきがもたらされてその心から御言葉を奪い去る人」「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人」「御言葉は聞くが途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれて実が熟するまでにはいたらない人」。特定の誰がという問題ではなしに、誰もがこのような課題を抱えたまま、各々の場で活かされているのが日々のわたしたちです。とりわけこの三年にわたるところのコロナ禍は教会の交わりにも破れや涙をももたらしました。けれども、そのような誘惑やつまずき、試練に遭って身を引いてしまう弱さ、思い煩いが、却って神の言葉とのより深い出会いに繋がるのもまた事実です。信仰とは個人の所有物ではありません。いわんや個人の思いでどうなるものでもありません。一つだけ確かなのは、譬え話の中では、種とは「神の言葉」だとはっきり記されているところにあります。これが肝なのです。わたしたちの様々な暮らしや内面の不安定さや不確かさに先んじて、神はイエス・キリストを世に送ってくださったのです。教会から離れ、放蕩息子のようにさまよう時があっても、父なる神は黙ってその帰りを待ち、物乞い同然の姿となった、荒んだ心のまま、戻ってきた仲間を責めるのではなく、抱擁して宴を催すほどに喜んでくださります。時が経ち、教会員も牧師も齢を重ね、かつての顔を見いだせなくなったとしても、神の言葉はその積年の後悔の中で必ず芽吹いて育っていたと後から気づかされるのです。イエス・キリストとの関わりがある限り、全ての荒廃した土地には神の慈しみが時に涙となってそそぎ、新たな潤いとなり、神の言葉の根が深く降ろし、豊かな実りを結びます。責めの言葉や言い訳は日々の祈りに姿を変えて、新たな地平が拓かれます。

 味わい深い白菜は雪国の畑によく育つと聞きます。人にとっては凍えるような冷たい風、真っ白な雪に埋もれる中で、白菜はそのままでも柔らかな甘みを帯びると申します。寒さは却って白菜を害虫や病気から守り、ひときわその味を際立たせてまいります。翡翠の白菜がどれほど高価な宝であったとしても、食卓に上った温かなご飯とともにいただくゆずの香る漬物、また身体をさらに温めるキムチの味に較べれば、ガラスケースの中のそれは人間の刻んだもの以上でありません。いろいろなPRがされるとはいえ、野菜を工場で作るにはかなりの無理があります。心と身体を整える神の言葉との出会いの秘訣は、心に神さまの野菜を育て、その栄養を分かちあう「余白」にあります。コロナ禍に際しなおも授かった、まだ見ぬ恵みを尊んで、新しい一週間を始めましょう。