―受難節第4主日礼拝―
時間:10時30分~場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「昔も今も愛を貫く神とわたしたち」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』9 章 28~36 節
(新約聖書 123 頁).
讃美= 66,270,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
イエスがひとり祈っていたとき、ともにいた弟子に「あなたがたはわたしを何者だと思っているのか」と問われ、ペトロは「神からのメシアです」と答えたという記事。この記事がすでに記されていると踏まえながら、本日の箇所を読み解いていきます。すると凝縮された内容を本日の御言葉が訴えているとおぼろげながらに分かります。ペトロのメシア告白、則ちイエスが「救い主」であるとの告白は、ペトロ自らの権威を象徴するとの理解も確かにありますが、丹念に読みますとその理解は福音書が伝えようとしていた内容と大幅にずれているように思えます。それはペトロの告白の八日後に起きたとされる「山上の変容」の物語に記される通りです。イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登ります。イエスは祈っておられるうちに、服は真っ白に輝き、モーセとエリヤが現われて語りあうにいたりました。語りあいの内容は人の子イエスがエルサレムで遂げる最期でした。ペトロは猛烈な眠気に襲われながら、輝くイエスの姿と二人の姿が目に入り、山小屋を三軒建てようとよく分からないことを申します。「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」。この幻はイエスがまさしくキリストであることを弟子たちに示しているのですが、ペトロはボタンを掛け違えたような反応しかできていません。モーセは『旧約聖書』で十戒を始めとした誡め『律法(トーラー)』を象徴し、エリヤは預言者の代表として『預言者の書(ネビイーム)』を暗示しており、したがって『旧約聖書』に記された神の救いの約束の完成としてイエスが描かれてはいるものの、その最期である「十字架での処刑」こそが、その約束が始まる時であるとのところまでにはペトロの理解はまだ及んではいません。ペトロの理解は他の弟子同様に実に素朴でした。「ローマ帝国の支配から解放してくださる英雄」としての救い主。それがペトロのメシア理解であるならば、イエス・キリストに課せられた苦難に満ちた救い主のあゆみは心にも浮かばず、ただただイスラエルの民のみが救いに預かるという限定的な救いに留まるほかなかったでしょう。救い主の十字架での死と復活を幾度も否定する。それがペトロのむき出しの姿です。
それではイエス・キリストの救いに連なるのはどのような人々であったのでしょうか。もちろん、福音書の物語で人の子イエスに出会った人々も洩れなかったことでしょう。目の見えない人、聴覚を失った人、手足の動かない人、悪霊にとりつかれたと決めつけられた人々。その時代のユダヤ教の共同体から排除されたこの人々に救いが及んだのは間違いありません。しかし『新約聖書』は言うに及ばず『旧約聖書』にもすでにその時代のユダヤ教徒以外の者にもまた神の愛がそそがれ、決して救いの蚊帳の外には置かれてはいないと明言されます。例えば『創世記』には「神はご自身にかたどって人を創造された」とあるだけに留まらず、「ソドムの滅亡」の物語では、古代都市ソドムの滅亡から辛うじて逃れたロトと二人の娘が、残酷かつ異様な体験の衝撃からか男女の関わりを持ち、それぞれ男児を授かるというエピソードが盛り込まれます。ただし、授かったこどもは、遠くダビデの先祖となる女性ルツの属する民の系譜となり、こども自らには決して罪はないとの理解が記されます。ペトロがこの記事を心に留めていたかは分かりません。しかし穢れた系譜に属するとされた人々にこそ救いが及ぶとの理解は画期的。「人生の闇」にも光は必ず射すのです。
言うまでもなく、モーセは自ら「乳と蜜流れる土地」カナンの地には入れずに、またエリヤは絶えず神に逆らうイスラエルの民から遠ざけられるという、後の世には誉め讃えられながらも、物語を味わえば日本語でいう「畳の上では死ねなかった」人々ばかりです。イエスと語らう『律法』の象徴が高名な律法学者ではなく、『預言者の書』の象徴が時の賞賛を浴びた人ではなく、その時代の王族からいのちを狙われた預言者であるところからしても、キリストの苦難の頂点が示されているのは明らかです。さらに今なおその救いのスケールの大きさにわたしたちは圧倒されるばかり。本日の聖書箇所の書き手も踏まえた『マルコによる福音書』で最初に「この人は本当に神の子だった」との告白は、十字架刑の現場の責任者であるローマ軍の百人隊長から発せられます。
わたしたちは「『旧約聖書』に記されているのは裁きの神」「『新約聖書』に記されているのは愛の神」だと誤解している節があります。けれども福音書を始めとした『新約聖書』の書き手集団は徹底的に『旧約聖書』を味わいながら、異なる民、異なる時代に活きいきと救いのメッセージを紡ぎ、それは神の遣わしたキリストをどの角度からも示します。時にわたしたちは『聖書』が「分からない」と呟きます。しかしその「分からない」という事実には、神の愛による養いの「伸びしろ」が隠れています。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」。イエスの不当逮捕の直前、ゲツセマネの園での態度と同じように眠気に襲われていたペトロ。しかしペトロがその眠りから醒めるとき、わたしたちにも目覚めが起きます。昔も今も時代を問わずわたしたちを愛さずにはおれない神。そのような神がわたしたちを愚かなまでに信頼して遣わされた救い主イエス・キリスト。神の愛は「愚かなまでの信頼」という姿をもとります。時に世の常識からは遠ざけられさえもする神の愛こそが、わたしたちの前にそびえる壁を打ち砕くのです。