―受難節第2主日礼拝―
時間:10時30分~場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
しかしそのような伝統に反して『旧約聖書』には希死念慮の塊のような預言者が描かれます。わずか4ページに過ぎない『ヨナ書』に登場するヨナがその人です。ヨナは戦によってイスラエルの民を大勢死に追いやった大国の都ニネベに神の救いの言葉を伝えるべく派遣されます。ニネベの住民はヨナにとっては不倶戴天の敵。ですから神の派遣に逆らい船に乗れば嵐に襲われ、慌てる船員に身の上を打ち明けた結果、波を鎮める犠牲として荒ぶる海へと放り込まれます。その後ヨナは大きな魚に三日三晩呑み込まれた後、陸地に吐き出されニネベに入り神の言葉を伝えます。ニネベの人々はその声に応じて神を信じ、王から民、すべての家畜にいたるまで断食し、悪の道から離れられるよう熱心に祈ります。その祈りは神に届き、都は滅びから逃れますが、問題はニネベの民よりもヨナ自らの態度。ニネベの救いに大いに不満であったヨナが神に訴えるには「主よどうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。「生きているよりも死ぬ方がましです」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」。かけがえのない家族や仲間を苦しめ、そのいのちを奪いながらも、神の前に悔い改めた異国の民が滅びを免れた、という出来事をヨナは受け容れられません。この短い物語には、人の子イエスの「敵を愛しなさい」との教えの尊さと困難さにも重なるところがあります。しかし「わたしの命をとってください」と神に叫ぶヨナに悪霊がとりついていると指摘する人はどこにも描かれません。むしろ神の愛が、都市の破壊と滅亡を望む預言者さえも用いて救いを実現させるところに神の愛と赦しが描かれます。大帝国アッシリアの都ニネべの王、そしてその民が赦されることで、ヨナもまた赦されるのです。
他方で『ルカによる福音書』の本日の箇所では、人の口を利けなくする悪霊を追い出す人の子イエスとならび、イエスに「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と難癖をつけたり、イエスを試したりする人々をも描きます。主イエスが答えるには「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なりあって倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張した者は、より大きな力をもつ悪霊で人の子イエスが小さな力の悪霊を追い払ったとでも考えたのでしょう。人の口を利けなくする悪霊を追い出したイエスにこの批判者が見たのは、単なる「力」でしかありませんでした。しかし強引な考え方やとりくみでは、利けなくなった口を開き、交わりに加わっていくという希望と喜びをもたらすのは不可能です。希望や喜びは「悪霊の力較べ」とは何の関係もありません。イエス・キリストは語ります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。「口を利けるようにする」との交わりを新たにするわざを誤解し、妬む人々のところにも「神の国はあなたたちのところに来ている」と語るイエス・キリスト。抱えるものが闇であれ悪霊であれ、すべてを巻き込んで神の愛の渦へと導いているようにも読みとれます。神がイスラエルと敵対したニネべを赦したように、ヨナはニネべの王や民を憎むほかないヨナ自身にもその赦しのわざが及んでいると、深い憤りからこみあげる希死念慮の中でも感じたことでしょう。さらにはイエス・キリストは、口が利けず、喜びだけでなく悲しみさえも訴えられなかった人を話せるようにする奇跡を行ないました。それはこの癒しのわざを蔑む人々にも、神の国の訪れを告げ、その頑なな心を開くわざにも繋がりました。悪霊とは、具体的にはすべての関係を絶つ「閉じこもり」と示すとの考えがありました。この者たちの悪霊を、イエス・キリストは見事に追い出し、解きほぐしたと言えます。そこには相手の破壊ではなく、そのあり方を新たに建てるわざがあります。
さまざまな報せのみならず、わが身に降りかかる不条理に対して深い憤りを覚えもするわたしたち。しかし『聖書』は神の愛が赦しというかたちをとると語ります。もちろん「なあなあで済ませば」よいのではありません。決して消せない痛みをともにし、関わる人それぞれが悶え苦しむ呻きに耳を傾け、反対に「なぜそうせずにはおれなかったのか」と問いかける相手の存在もまた、まずは受けとめて、同じ悲しみが広まらない手立てを祈り求めるあり方につながります。受難節第2主日を迎えました。キリストの苦難に満ちた血と涙の道とは、想像を絶する神の赦しの熱量をも示します。赦しの熱さに触れて新しい一週間を始めましょう。
説教=「愛は人の徳を建てる」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』11 章14~23節
(新約聖書 128 頁).
讃美= Ⅱ177,300,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
人生のライフステージが大きく変わる季節。三月とはそのような月でもあります。この変化に心身がついていけない方々も多いと聞きます。1977年に設立された「日本いのちの電話連盟」は、渦巻く悩みを抱えた人々の声に耳を傾ける働きとして知られています。今よりも家庭内暴力や心の病に器の狭い対応しかできなかった時代、受話器から聞える声には希死念慮からあふれてくる叫びもあったことでしょう。その時代、伝統を重んじるところの教会の中には『聖書』にそのような記事がないのにも拘わらず「自死」を本人の罪の結果として決めつけるという、悶え苦しむご遺族の辛さを蔑ろにする態度をとり続けた過ちがありました。
しかしそのような伝統に反して『旧約聖書』には希死念慮の塊のような預言者が描かれます。わずか4ページに過ぎない『ヨナ書』に登場するヨナがその人です。ヨナは戦によってイスラエルの民を大勢死に追いやった大国の都ニネベに神の救いの言葉を伝えるべく派遣されます。ニネベの住民はヨナにとっては不倶戴天の敵。ですから神の派遣に逆らい船に乗れば嵐に襲われ、慌てる船員に身の上を打ち明けた結果、波を鎮める犠牲として荒ぶる海へと放り込まれます。その後ヨナは大きな魚に三日三晩呑み込まれた後、陸地に吐き出されニネベに入り神の言葉を伝えます。ニネベの人々はその声に応じて神を信じ、王から民、すべての家畜にいたるまで断食し、悪の道から離れられるよう熱心に祈ります。その祈りは神に届き、都は滅びから逃れますが、問題はニネベの民よりもヨナ自らの態度。ニネベの救いに大いに不満であったヨナが神に訴えるには「主よどうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。「生きているよりも死ぬ方がましです」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」。かけがえのない家族や仲間を苦しめ、そのいのちを奪いながらも、神の前に悔い改めた異国の民が滅びを免れた、という出来事をヨナは受け容れられません。この短い物語には、人の子イエスの「敵を愛しなさい」との教えの尊さと困難さにも重なるところがあります。しかし「わたしの命をとってください」と神に叫ぶヨナに悪霊がとりついていると指摘する人はどこにも描かれません。むしろ神の愛が、都市の破壊と滅亡を望む預言者さえも用いて救いを実現させるところに神の愛と赦しが描かれます。大帝国アッシリアの都ニネべの王、そしてその民が赦されることで、ヨナもまた赦されるのです。
他方で『ルカによる福音書』の本日の箇所では、人の口を利けなくする悪霊を追い出す人の子イエスとならび、イエスに「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と難癖をつけたり、イエスを試したりする人々をも描きます。主イエスが答えるには「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なりあって倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張した者は、より大きな力をもつ悪霊で人の子イエスが小さな力の悪霊を追い払ったとでも考えたのでしょう。人の口を利けなくする悪霊を追い出したイエスにこの批判者が見たのは、単なる「力」でしかありませんでした。しかし強引な考え方やとりくみでは、利けなくなった口を開き、交わりに加わっていくという希望と喜びをもたらすのは不可能です。希望や喜びは「悪霊の力較べ」とは何の関係もありません。イエス・キリストは語ります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。「口を利けるようにする」との交わりを新たにするわざを誤解し、妬む人々のところにも「神の国はあなたたちのところに来ている」と語るイエス・キリスト。抱えるものが闇であれ悪霊であれ、すべてを巻き込んで神の愛の渦へと導いているようにも読みとれます。神がイスラエルと敵対したニネべを赦したように、ヨナはニネべの王や民を憎むほかないヨナ自身にもその赦しのわざが及んでいると、深い憤りからこみあげる希死念慮の中でも感じたことでしょう。さらにはイエス・キリストは、口が利けず、喜びだけでなく悲しみさえも訴えられなかった人を話せるようにする奇跡を行ないました。それはこの癒しのわざを蔑む人々にも、神の国の訪れを告げ、その頑なな心を開くわざにも繋がりました。悪霊とは、具体的にはすべての関係を絶つ「閉じこもり」と示すとの考えがありました。この者たちの悪霊を、イエス・キリストは見事に追い出し、解きほぐしたと言えます。そこには相手の破壊ではなく、そのあり方を新たに建てるわざがあります。
さまざまな報せのみならず、わが身に降りかかる不条理に対して深い憤りを覚えもするわたしたち。しかし『聖書』は神の愛が赦しというかたちをとると語ります。もちろん「なあなあで済ませば」よいのではありません。決して消せない痛みをともにし、関わる人それぞれが悶え苦しむ呻きに耳を傾け、反対に「なぜそうせずにはおれなかったのか」と問いかける相手の存在もまた、まずは受けとめて、同じ悲しみが広まらない手立てを祈り求めるあり方につながります。受難節第2主日を迎えました。キリストの苦難に満ちた血と涙の道とは、想像を絶する神の赦しの熱量をも示します。赦しの熱さに触れて新しい一週間を始めましょう。