2023年3月31日金曜日

2023年 4月2日(日) 礼拝 説教

  ―受難節第6主日礼拝―

ー棕櫚の主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「責任転嫁をしなかった人とともに」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』23 章 32~43 節
(新約聖書 158 頁).

讃美= 讃美ファイル 5, 257, 136, 271B, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】

 「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。」「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。『創世記』3章に記される、人間よりも賢いとされた蛇に唆されて善悪を知る知識の実を男女が食べたという、よく知られた場面です。『創世記』がバビロン捕囚の中で記された書物だと踏まえればなるほど話として納得はします。しかし問題はそのような時代考証には直接関わりはありません。むしろ「決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」との約束を授かった男性が、本来食べてはならないはずのその実を食べ、あたかも神であるかのように振る舞い始めたその最初の所作とは「弱い部分を隠すべきだ」と否定的な評価を加え、そして主なる神が歩いてくる音を聞けば身を隠し、そして善悪の知識の木の実を食べたその責任を「わたしの肉の肉、骨の骨」とまで喜びのあまり呼ばわり手を携えた女性に責任を転嫁してしまうという態度の豹変ぶりです。『創世記』の文脈では人間関係の最も基本となるのは夫婦とされ、「人間がともに生きるありかた」の最も基本となる絆であるとされます。「村」や「家」という集団を越えて、血のつながらない二人が神の前にお互いが対等の関わりを築くというのが古代社会では革命的な着想であるばかりか、今日に至ってなおも結婚式の式文で求められる誓いにすらなっています。しかし神との約束を疎かにしたことで、人間の間には不信の念が芽生え、女性は男性に支配され、男性は生涯食べ物を得ようと苦しむという結果にいたったとの物語が記されます。ただし注意しなくてはならないのはこの箇所には直接「罪」という言葉は記されておらず、したがって西方キリスト教の教えの中で見られる「原罪」という考えも『創世記』本文からは見られません。ただし決定的な事柄としては、神は責任転嫁という人間のあり方を決して見逃してはいなかったところ。そのルーツは自らとの結んだ約束の放棄にあったからだ。これが古代ヘブライ人の理解です。すべての人の歪みがこの物語には集約されています。

 本日の福音書の箇所には、実はこれほどの道筋があります。「ゴルゴダ」と呼ばれたその処刑場には三本の杭が建てられ、手を打ちつけるための横木がはめ込まれていました。そしてその真ん中の杭には、虐げられた人々、排除された人々とともにあゆみ、エルサレムの祭司長や律法学者たちから危険視された結果殺意を向けられ、不当な逮捕と裁判を受け、判決は責任不在のまま「たらい回し」にされた結果、刑に処せられた救い主イエス・キリストの姿があります。たらい回しもまた「責任転嫁」の別の言い方です。「自分を救ってみろ」との声も、現代の自己責任論にもつながる、誰も責任をとらないという意味では無責任論であり、責任転嫁の枠を出ない言葉でしょう。しかしあろうことかこの処刑場で奇跡が起きます。それは「お前は神をも恐れていないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」と弱り切った体力を振り絞り呻く受刑者の声です。イエス・キリストが無罪であるとの告白が、この死刑囚には自らの犯した罪と真正面から向き合わせ、あらゆる責任転嫁の誘惑から解放しています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と十字架の上でイエス・キリストに語りかけます。究極の苦しみ悶えの中での信仰の呟きが、この死刑囚の苦しみを全く異なる次元へと変容させるのです。

 世界的な戦争のみならず、わたしたちの身近なところで起きるトラブルや不適切な言動。このような言動もまた「悪いのはわたしではない、別の誰かだ」との思いから始まります。それがその場にいない人々であったり、生活文化の異なる人々であったり。多様性を尊重しないところの、人権を踏みにじる言動もまた同じ理屈から生まれます。「悪いのはわたしではない」。その意味では『創世記』の天地創造物語の書き手集団の視点はまさしく神から授かった慧眼とも呼べるでしょう。しかし『創世記』のあの箇所でさえ、神との約束を反故にして楽園から追放される男女には皮の衣が着せられます。この衣には試練に満ちたあゆみの中「死なないように」との神の愛がほのめかされています。その時代、ローマの法学者でさえ逡巡したと言われる残酷な刑罰を自らの過ちへの正当な措置だと受けとめた無名の犯罪人とイエス・キリストとの語らいは、この犯罪人を不条理極まりなく、その過酷な生涯とは全く異なる地平へと引きあげます。イエス・キリストとのいのちを賭した関わりの中で、死刑囚は罪を認めないとの責任転嫁の呪縛を絶ちました。本日は棕櫚の主日礼拝。受難週の始まる主日礼拝です。その主日礼拝にこの教会では讃美が響き、栄華を誇ったソロモン王の宮殿よりも美しい花であり十字架を示すガーベラを分かちあいます。それはイエス・キリストの十字架の血潮が、わたしたちにあらゆる責任転嫁を止めさせ、その先にある滅びを突破する復活といういのちの出来事を指し示すためです。