2023年4月7日金曜日

2023年 4月9日(日) 礼拝 説教

ーイースター礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「いのちの復活に触れて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』20 章 11~18 節
(新約聖書 209 頁).

讃美= 146, 148, 讃美ファイル 3, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今年の受難節ではなぜか、キリストの受難のあゆみを解き明かす説教は機会としては少なかったように思います。三年間続いた新型コロナウイルス感染症対応型の礼拝がまだ身体から感覚として脱けていないからか、それとも大切なご家族を見送る方々とともにいたこともあり、魂が耐えられず敢えて離れていたかどうなのかは分かりません。ただ、牧師・教会員お互いは家族に等しい大切な存在のはずで、そのような方々を弔うわざは、なかなか機械的にできるものではありません。「あなたはプロなのだから」との指摘に感じるのは、要は信頼を得られるキャリアやノルマを積み重ねるわざと『聖書』への向き合いや教会員のへの向き合いを同一視することに他なりません。そのような気持ちになれば作業は簡単です。無難に教会と向き合い、各個教会のバックヤードにある組織にも抜け目なく向き合い、年月を経るに連れて規模も肩書きも立派なものにしていく。その中での告別式や結婚式も淡々とこなし、『聖書』の言葉も刺激的なものは避けていくといった具合です。

 しかし牧師に限らず教会に根を下ろす役目はプロフェッショナルではなく「コーリング」と呼ばれます。つまり自ら「ある職種を選ぶ」という意志に先んじて、何者かの声に呼び止められてその役目に招かれていくという道です。もしある人が個人的な願望にのみ基づいて牧師の道を選ぶとすれば、やがて幾つも綻びが生じてまいります。意見の合わない者は直ちに排除の対象となり、教会も事業体も組織として手練手管を用いて大きくさせ利潤を得られるようにします。多様性を認めない者への抵抗とは異なる不毛な争いも生じますが、これには人としてどうなのかという仕方を用いてでも対処します。コーリングという言葉が欠けているならば、たとえ全世界を手に入れたとしても、その人の死とともに、一代限りで全ては雲散霧消してしまいます。

 ナザレのイエスが神の呼び声を聞く場面を、本日の箇所にいたるまで少なくともわたしたちは二度触れているはずです。第一には人の子イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから水による清めの洗礼を授かったとき。最初期に成立した福音書では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声。そして、イエスが僅かな弟子を連れて山に登り、『旧約聖書』を代表するモーセと預言者エリヤと語らい、真っ白に輝く姿に変容したときの「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声。栄光を現わすと言われるこの神の語りかけも、十字架への苦難の始まり、そしてモーセとエリヤとの語らいは「イエスがどのような最期を遂げるか」を内容としていました。いずれにせよ、イエスは救い主として神に拓かれた苦難の道をたどり、そしてあゆまれました。それは自分のいのちを削り人々に癒しと慰めと希望を授けるあり方でした。その果てに待ち受けていたのは十字架刑による死でした。

 ローマ帝国の磔刑とは十字架に掛けられる前に鞭で身体中を傷つけられ、衰弱させられます。そして少しでも苦しみが増すように脱臼させられて杭に釘打たれます。全体重を用いての亡骸の傷みは想像を絶します。変わり果てた遺体をせめて清めにと墓を訪れた弟子たちは、主の復活に気づかずその遺体が取り去られたものと思いその場から立ち去ってしまいます。『ヨハネによる福音書』に登場する「イエスの愛していたもう一人の弟子」は復活を信じるものの、その後にどのように振る舞ったかは記されていません。

 しかしマグダラのマリアの描写は実に対照的で、活きいきとしています。マリアは弟子たちとは異なり、墓の中に白い衣を着た二人の天使を見ます。一人はイエスの骸が置かれた頭の方、一人は足の方に座っています。御使は「女性よ、なぜ泣いているのか」と尋ねますと「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません」。慟哭と身の震えが伝わります。「わたしがあの人を引き取ります」。このマリアのうろたえを受けとめながら名を呼びかけた声は、マリア自らから「ラボニ(先生)」という言葉を引き出します。「わたしにすがりつくのはよしなさい」とはどのような意味でしょうか。それは「マグダラのマリアにもまた神が授けた役割がある。それは『あなたがたの神のところに上る』との言葉を仲間に伝えることだ」とのメッセージです。「イエスの愛していたもう一人の弟子」に較べますと、まことに力にあふれて「わたしは主を見た」と「信じる」という言葉よりもさらに直接的な言葉で弟子に自らの体験を語ります。このかけがえのない出会いは決して消えることはありません。

 わたしたちの教会はイエス・キリストを土台とし、イエス・キリストを頭とした交わりに連なっています。世にある組織として問われる責任はその礎の上にあります。そして様々な社会不安と無責任さが世を覆うほどに、わたしたちの交わりに多くの痛みの中から助けを求める手が伸ばされています。イエス・キリストは孤独と絶望と、痛みと涙と裏切りを知る救い主です。その痛みがマリアの悲しみを癒し、いのちの希望とともに、あゆむべき方向に向かわせたに違いありません。いのちの復活に触れる雛形がそこには描かれます。そしてわたしたちもまた、味わう悲しみや痛みをイエス・キリストの復活に重ね、進むべき道へと向きを変えられていきます。特別な思いで迎える主の復活の喜び。何も恐れる必要はありません。主が支えてくださるのです。