ー復活節第3主日礼拝ー
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「おかれた場所で咲くもまたよし」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』24 章 36~49 節
(新約聖書 160 頁).
讃美= 453, Ⅱ 192,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
2012年、ある調査によれば累計で約200万部のベストセラーになった著作があります。それは『置かれた場所で咲きなさい』。ノートルダム清心学園理事長であったシスター渡辺和子さんが、宣教師に渡されたメモとして授けられた言葉に救いを得たところから始まるエッセイであり、文章表現の美しさとともにベストセラーとなりました。2012年といえば東日本大震災の翌年であり、その傷から被災地もまだ立ち直っていない人々が大勢。どうすればよいのか途方に暮れる方々の一部には救いのメッセージにはなったでしょう。確かに2.26事件で父親を殺められた渡辺和子さんの、元兵士に向けた赦しの言葉には心が動かされます。
けれどもこの言葉はすべての人にあてはまるものかと考えると、首を傾げたくなります。著書とは意識・無意識に一定の読者層を想定して執筆されます。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が大規模な教育現場や教会などで語られるのであれば納得もいくのですが、茨の中に落ちてしまったような環境にいる方々との具体的な関わりの中では、とてもではありませんが語れません。茨を取り除くか、または土ごと植え替えなければ、生命の危機にすら晒される人々が大勢いるのが、あれから10年後の世界です。
『ルカによる福音書』のほぼ最後にあたる本日の箇所で、復活されたイエス・キリストは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と語ります。「父が約束されたもの」とは事実上の続編『使徒言行録』に記される聖霊降臨の出来事も含んでいます。しかし内容のよく似た他の福音書の「ガリラヤへ行け」とはメッセージが明らかに異なります。「置かれた場所で咲きなさい」とは「都に留まれ」の意味なのでしょうか。
『ルカによる福音書』のほぼ最後にあたる本日の箇所で、復活されたイエス・キリストは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と語ります。「父が約束されたもの」とは事実上の続編『使徒言行録』に記される聖霊降臨の出来事も含んでいます。しかし内容のよく似た他の福音書の「ガリラヤへ行け」とはメッセージが明らかに異なります。「置かれた場所で咲きなさい」とは「都に留まれ」の意味なのでしょうか。
イエス・キリストが「都に留まれ」と弟子たちに命じるその訳は、エルサレムが聖霊降臨の場であるとともに、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ためのベースキャンプになるとの理解があります。そして復活したイエス・キリストはすべての国の民に通じる仕草でもって使徒となる弟子に伝えられる神のメッセージを示します。それは「あなたがたに平和があるように」との言葉と、「焼いた魚を食べる」という行為です。イエス・キリストの語る平和とは、単に戦争のない状態を示すのではありません。それは世界的な使信であり、また身近なメッセージとして、人々がキリストを軸とした「分かち合い」の中で活かされる日々を示します。そして「焼いた魚」とは実際には当時の貧しい人々が味わった日々の糧であり、おそらくあらゆる民の間で食されていた食べ物です。すなわち、いよいよこれから弟子たちは、世界宣教のわざに従事していく象徴として、イエス・キリストは貧富や文化を問わず、すべての民と食卓をともにする交わりを具体的に示します。復活したイエス・キリストは幽霊ではありません。肉体と分離した霊魂ではありません。その手とその足には十字架で受けた傷が明らかに示されていたはずです。それは傷そのものとして歴史を示しています。復活したイエス・キリストに背中を押されて、弟子たちは死を越えていく喜びの報せを数多の出会いの中で広げてまいります。それはその場に留まり続けるだけでは味わえない出来事の連続です。その時、その時にあっては、空を仰いで「どこから助けは来るのだろうか」と呟くほかない場面にも出くわすことでしょう。けれどもその道中には、甦られたイエス・キリストがともにあゆんでくださっているのです。弟子は使徒として神の愛の証しを立てるために置かれた場所で福音の咲くこともあれば、見聞きしたこともないような体験を通して花を咲かせる自由を授かってまいります。置かれた場所で萎れそうになるとき、主の御手はその人を土ごと別のところへと変えてくださります。ですから、置かれた場所であっても、そうでなくても、神の御旨であるならば、わたしたちは自由に、そして伸びやかに旅を続けることができるのです。
思えばアブラハムから始まる族長たち、モーセに率いられたイスラエルの民は、旅と深く関わっていました。人の子イエスもさまざまな場所を移り変わりながら神の愛がすべてを治めるとの希望を語りました。そしてわたしたちもまた、めまぐるしく変わる世の常識や技術の中で、祈りながら神の愛を証ししようとしています。上手くいったと思えば傲慢になったり、その傲慢さが却って砕かれたり、駄目だと思って頭を抱えれば思わないところから感謝をされて心を震わせたりと、キリストがともにいてくださるからこそ、実ににぎわい豊かな日々を過ごすことができるというものです。
教会という場所や交わりは、決して人を特定の場所や境遇に縛りつけるようなメッセージを語ることはありません。もちろん今は動くべき時ではない、今は待つべき時であると主なる神は語ります。しかし窮地にある人々を、神はその場に留まり続けなさいとは決して仰せにはならないのです。シスター渡辺和子さんのように自らのライフトーリーを語りうる人もいれば、そうでない人もいます。けれどもすべての人々の花を、神さまは咲かせてくださると、復活の主イエスは仰せになっておられます。