2023年2月2日木曜日

2023年2月5日(日) 礼拝 説教 (この日より、会堂での対面式の聖日礼拝を再開します。)

 ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
この日より通常礼拝を再開します。


説教=「神さまの野菜を上手に育てる秘訣」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』8 章 4~15 節
(新約聖書  118 頁).

讃美=265,536,539.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「翠玉白菜」という彫刻品が、台北市の国立故宮博物院にあります。高さ19センチほどの手のひらほどの大きさながら、翡翠をバッタとキリギリスがとまった白菜のかたちに刻んだ名品。清朝に嫁いだ妃が持参したものとされ、台湾を代表する美術品だということで、値段もつけられないほどのお宝だとのことです。

 しかし一方で、わたしたちはこの「翠玉白菜」でも及ばない宝を授かっています。それは時に虫に食べられた穴もある本物の白菜です。白菜はアブラナの仲間で涼しい気候を好みます。しかも種まき以前によい土を備えるため耕しておかなければなりません。しっかり根を下ろせるのか、土のpHはどれくらいか、水はけがよいのか水もちがよいのか、肥えた土がよいのか痩せた土がよいのか、マルチを敷くべきか。いろいろと思案した上で手を入れてみたところで、自然災害も含めた大自然の動きにはわたしたちにはどうすることもできません。「委ねるしかない」という人の手の及ばない真っ白な「余白」が、第一次産業には必ずつきまといます。そしてその「余白」に人間が手を出そうものならば、却って飢餓や環境破壊に繋がる場合もあるというものです。

 今よりももっと作づけを自然のなすままに委ねるほかなかった福音書の描く世界には、農業や漁業の譬え話が耳を傾ける人々には最も響いたのだと思われます。方々の町から出てきた大勢の群衆のそばで、次の譬えを人の子イエスは語ります。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。続いて譬えを用いて話す理由が語られた後に「種」が神の言葉を指すこと、道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い土地に落ちた種が何を示すかが語られます。『ヨハネによる福音書』を除く他の福音書にも記載される有名な譬え話ですが、本日の箇所に付加されているのは「道端に落ちた種」が「人に踏みつけられ」との言葉とともに記されているところです。つまりこの箇所は他の福音書にもまして、人の世の様々な横やりが、神の言葉の証しにさおを差していくと語るのです。わたしたち同様、『ルカによる福音書』に記される世界で、教会の交わりに連なる人々は世の様々な誤解や妨げに遭っていたことが想像されます。

 しかし、以上のように、神の言葉の証しと、その証しに連なる人々にとって、神様との関わりを保ち続ける上での障りを挙げればきりがありません。「後から誘惑やつまずきがもたらされてその心から御言葉を奪い去る人」「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人」「御言葉は聞くが途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれて実が熟するまでにはいたらない人」。特定の誰がという問題ではなしに、誰もがこのような課題を抱えたまま、各々の場で活かされているのが日々のわたしたちです。とりわけこの三年にわたるところのコロナ禍は教会の交わりにも破れや涙をももたらしました。けれども、そのような誘惑やつまずき、試練に遭って身を引いてしまう弱さ、思い煩いが、却って神の言葉とのより深い出会いに繋がるのもまた事実です。信仰とは個人の所有物ではありません。いわんや個人の思いでどうなるものでもありません。一つだけ確かなのは、譬え話の中では、種とは「神の言葉」だとはっきり記されているところにあります。これが肝なのです。わたしたちの様々な暮らしや内面の不安定さや不確かさに先んじて、神はイエス・キリストを世に送ってくださったのです。教会から離れ、放蕩息子のようにさまよう時があっても、父なる神は黙ってその帰りを待ち、物乞い同然の姿となった、荒んだ心のまま、戻ってきた仲間を責めるのではなく、抱擁して宴を催すほどに喜んでくださります。時が経ち、教会員も牧師も齢を重ね、かつての顔を見いだせなくなったとしても、神の言葉はその積年の後悔の中で必ず芽吹いて育っていたと後から気づかされるのです。イエス・キリストとの関わりがある限り、全ての荒廃した土地には神の慈しみが時に涙となってそそぎ、新たな潤いとなり、神の言葉の根が深く降ろし、豊かな実りを結びます。責めの言葉や言い訳は日々の祈りに姿を変えて、新たな地平が拓かれます。

 味わい深い白菜は雪国の畑によく育つと聞きます。人にとっては凍えるような冷たい風、真っ白な雪に埋もれる中で、白菜はそのままでも柔らかな甘みを帯びると申します。寒さは却って白菜を害虫や病気から守り、ひときわその味を際立たせてまいります。翡翠の白菜がどれほど高価な宝であったとしても、食卓に上った温かなご飯とともにいただくゆずの香る漬物、また身体をさらに温めるキムチの味に較べれば、ガラスケースの中のそれは人間の刻んだもの以上でありません。いろいろなPRがされるとはいえ、野菜を工場で作るにはかなりの無理があります。心と身体を整える神の言葉との出会いの秘訣は、心に神さまの野菜を育て、その栄養を分かちあう「余白」にあります。コロナ禍に際しなおも授かった、まだ見ぬ恵みを尊んで、新しい一週間を始めましょう。