時間:10時30分~
さらにそのような事情の中で、なおも暮しを互いに支えあおうと意欲を燃やす人もいます。当事者としてそうせずにはおれないという人は、たとえ住む家がなくても、自ら炊き出しのテントで包丁を握り、寄付された野菜を刻み、肉を切り、大釜に湯を立て味噌を入れます。また手にした握り飯を「兄ちゃんもな」と若者に渡します。決して「されたがり」ではなく「したがたり」ではあるけれど、それができない辛さを知っているからこその行動。その実情が分かる現場。「上から目線」での奉仕は続きません。
本日の『聖書』では、エルサレムの神殿の境内に備えられた献金箱になけなしのお金を献げる独り身の女性の姿が描かれます。金持ちが集まって献金箱にお金を献げる中、女性は手に握りしめた銅貨二枚、今で言えば150円程度の額を神に献げます。それを見た人の子イエスは「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちはみな、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と語ります。額もまた切実です。ごく短い箇所ですが、わたしたちは教会で献げる献金のモデルとしてこの女性を引用します。しかし別の見方をいたしますと、まだこの箇所では「有り余る中から献金した金持ちたち」と「乏しい中から持っている生活費を全部献金箱に入れた女性」との関わりは分断されたままのように思えます。本来ならばイスラエルの神が臨み、現にそこにいるはずの神殿では、すべての世にある分断と、その分断から生まれるところの苦しみが癒され、交わりの回復の場となるはずです。しかし本日の箇所では、却って富める者と貧しい者との差が際立ち、人の子イエス自らもその違いを弟子に示すだけで、解決する道を示しているようには見えません。
そのわけを、続く箇所から探ってまいりましょう。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉献物で飾られていることを話していると、「イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」とあります。当時のエルサレムの神殿に惚れ惚れしてしまう人々は『ルカによる福音書』では漠然と描かれるだけですが『マルコによる福音書』13章では弟子もまた同じように我を忘れて魅入ってしまいます。それほどまでに見事な神殿は、決してイスラエルの民が自ら建てたのではなく、ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ大王の治世に再建された神殿でした。つまりこの神殿は、ローマ帝国の支配の寛容さを顕示する目的も兼ねた建造物であり、集う人々の気持ちとは異なって、極めて政治色の濃い建物でした。そのような建造物は、移りゆく世とともに崩れ去ります。ご覧の通り、本日の箇所ではエルサレムの神殿は人の子イエスが幼かったころとは全く異なっています。そこはマリアとヨセフが幼子を連れて12年もの間、詣で続けた場ではなく、いずれは滅び去る人の世の象徴に過ぎません。そしてその特性は、やがて訪れる神の愛の統治、すなわち神の国の訪れと深く関連づけられてまいります。この神殿の存続よりも大事なのは神の愛による統治であり、その統治を前にして「人に惑わされるな」、「戦争や暴動は起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」、「大規模な争いがあり、自然災害があり、飢饉や疫病がある」、「あなたがたは起ころうとしているすべてから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と人の子イエスは語ります。その後、民衆はみな話を聞こうとして、神殿の境内にいる人の子イエスのもとに朝早くから集まります。誰もが福音を求めているのです。『マタイによる福音書』24章14節では「そして御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」と記します。この福音につつまれて、本日の聖書の箇所の金持ちと貧しい独り身の女性の関係も変わるに違いありません。すなわち、イエス・キリストを中心として、あの「徴税人ザアカイ」がそうであったように、金持ちは時に不正な手段によって得た全財産を用いてでもこの女性の暮らしを支え、独り身の女性は貧しい暮しの中でなお神に感謝して生きるという、金銭にはかりがたい喜びを金持ちに伝えます。イエス・キリストが伝えた福音の内容とは、すべての断絶が癒され、分かちあいが回復する「神の平和の実現」をも含みます。「神の平和」は戦争がないという状態を超えています。
遺されたわずかな財産でさえ親族の分断をもたらす世。表向き豊かだとされてはいても、誰にも看取られずに召される人の絶えない時代。そのただ中で、あなたは独りではないと語るイエス・キリストがどこにおられるのかを見極め、祈りを重ねましょう。
※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「あなたは孤独であるはずがない」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』21 章 1~9 節
(新約聖書 151 頁).
讃美=517,495,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
年末年始に大阪市西成区のあいりん地区では「釜ヶ崎越冬闘争」の名のもと、大がかりな炊き出しや道端に横たわる方々に毛布を配布したり、おにぎりを配布したり、具合を尋ねたりする働きがいつにも増して盛んになります。公園では暖をとるためにドラム缶に火が焚かれ、公園ではさまざまなジャンルのアーティストが歌を歌い続けます。里に帰れない人々を励ますためです。その様子は現在、SNSによって知ることができます。21世紀も4分の1にいたろうとする今も、現場で仕える若者がいるのは心強いかぎり。炊き出しに並ぶ人々には30~40代の方々もいるという厳しさの中、10年に一度のこの寒波を押して活動は続きます。
さらにそのような事情の中で、なおも暮しを互いに支えあおうと意欲を燃やす人もいます。当事者としてそうせずにはおれないという人は、たとえ住む家がなくても、自ら炊き出しのテントで包丁を握り、寄付された野菜を刻み、肉を切り、大釜に湯を立て味噌を入れます。また手にした握り飯を「兄ちゃんもな」と若者に渡します。決して「されたがり」ではなく「したがたり」ではあるけれど、それができない辛さを知っているからこその行動。その実情が分かる現場。「上から目線」での奉仕は続きません。
本日の『聖書』では、エルサレムの神殿の境内に備えられた献金箱になけなしのお金を献げる独り身の女性の姿が描かれます。金持ちが集まって献金箱にお金を献げる中、女性は手に握りしめた銅貨二枚、今で言えば150円程度の額を神に献げます。それを見た人の子イエスは「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちはみな、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と語ります。額もまた切実です。ごく短い箇所ですが、わたしたちは教会で献げる献金のモデルとしてこの女性を引用します。しかし別の見方をいたしますと、まだこの箇所では「有り余る中から献金した金持ちたち」と「乏しい中から持っている生活費を全部献金箱に入れた女性」との関わりは分断されたままのように思えます。本来ならばイスラエルの神が臨み、現にそこにいるはずの神殿では、すべての世にある分断と、その分断から生まれるところの苦しみが癒され、交わりの回復の場となるはずです。しかし本日の箇所では、却って富める者と貧しい者との差が際立ち、人の子イエス自らもその違いを弟子に示すだけで、解決する道を示しているようには見えません。
そのわけを、続く箇所から探ってまいりましょう。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉献物で飾られていることを話していると、「イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」とあります。当時のエルサレムの神殿に惚れ惚れしてしまう人々は『ルカによる福音書』では漠然と描かれるだけですが『マルコによる福音書』13章では弟子もまた同じように我を忘れて魅入ってしまいます。それほどまでに見事な神殿は、決してイスラエルの民が自ら建てたのではなく、ローマ帝国の支配のもと、ヘロデ大王の治世に再建された神殿でした。つまりこの神殿は、ローマ帝国の支配の寛容さを顕示する目的も兼ねた建造物であり、集う人々の気持ちとは異なって、極めて政治色の濃い建物でした。そのような建造物は、移りゆく世とともに崩れ去ります。ご覧の通り、本日の箇所ではエルサレムの神殿は人の子イエスが幼かったころとは全く異なっています。そこはマリアとヨセフが幼子を連れて12年もの間、詣で続けた場ではなく、いずれは滅び去る人の世の象徴に過ぎません。そしてその特性は、やがて訪れる神の愛の統治、すなわち神の国の訪れと深く関連づけられてまいります。この神殿の存続よりも大事なのは神の愛による統治であり、その統治を前にして「人に惑わされるな」、「戦争や暴動は起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ない」、「大規模な争いがあり、自然災害があり、飢饉や疫病がある」、「あなたがたは起ころうとしているすべてから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と人の子イエスは語ります。その後、民衆はみな話を聞こうとして、神殿の境内にいる人の子イエスのもとに朝早くから集まります。誰もが福音を求めているのです。『マタイによる福音書』24章14節では「そして御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」と記します。この福音につつまれて、本日の聖書の箇所の金持ちと貧しい独り身の女性の関係も変わるに違いありません。すなわち、イエス・キリストを中心として、あの「徴税人ザアカイ」がそうであったように、金持ちは時に不正な手段によって得た全財産を用いてでもこの女性の暮らしを支え、独り身の女性は貧しい暮しの中でなお神に感謝して生きるという、金銭にはかりがたい喜びを金持ちに伝えます。イエス・キリストが伝えた福音の内容とは、すべての断絶が癒され、分かちあいが回復する「神の平和の実現」をも含みます。「神の平和」は戦争がないという状態を超えています。
遺されたわずかな財産でさえ親族の分断をもたらす世。表向き豊かだとされてはいても、誰にも看取られずに召される人の絶えない時代。そのただ中で、あなたは独りではないと語るイエス・キリストがどこにおられるのかを見極め、祈りを重ねましょう。