時間:10時30分~
その結果はどうなったか。漁師の予想に反して数え切れないほどの魚が網にかかり、網が破れそうになり、もう一艘の仲間に助けを求め、舟が沈みそうになるまでの収穫を得ることができました。ただし、この箇所で物語が終われば、大漁旗の話でめでたく幕降ろしとなりますが、それにしてははじめてイエス・キリストと言葉を交わした漁師のシモン・ペトロの言動は奇妙です。素直に喜べばよいものを、イエス・キリストの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と呟くのです。ペトロだけではなく、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だったというのです。よくある解き明かしでは、イエスの教えを信じ切れていなかった、半信半疑の漁師たちの畏怖の念が描かれているともされますが、果たしてその理解に留まっていてよいのでしょうか。
実はこの箇所にはまことに象徴的な言葉が散りばめられています。例えば「魚」。「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」との初代教会の信仰告白の頭文字をとりますと「魚」というギリシア語に一致します。これは教会との関わりを尊ぶ人々の連なりを示しているとも読みとれます。しかしさらに問われるのは、福音書という『新約聖書』の書物が、全てイエス・キリストの苦難と十字架での死、そして復活を軸にして展開しているということです。イエス・キリストが大祭司の手下や祭司長の下役に不当に身柄を拘束された後、ペトロは鶏が鳴く前に三度人の子イエスとの関わりを否定します。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないというだろう」。これは使徒ペトロ個人の躓きに留まらず、使徒たちが導いた教会の躓きにも及ぶ言葉です。皮肉ながら、ペトロはイエス・キリストとの関わりを否まなければ、その教えの当事者にはなれませんでした。涙をもって受けとめることができなかったのです。それでは使徒ペトロは弟子失格だったのでしょうか。破門されたのでしょうか。そうではなかったのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。多くの躓きを重ねる弱さを見抜きながら、その度に「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と語るイエス・キリスト。闇の中で頑なにあがき続けるのではなく、神の希望の光の中で、世の只中へと漕ぎ出していき、人々と交わりを育み、広げていく愛の力を信頼しましょう。わたしたちはイエス・キリストを前にして、ただただひれ伏すのみです。それが聖日の礼拝に備えられた「頑なさを砕く」という神の愛に活かされる者の決して軽んじられてはならない、尊い奉仕のわざです。礼拝の尊さです。奉仕が謙遜を失うのであれば、それはイエス・キリストの望まれはしないでしょう。どんなに小さくても、イエス・キリストに背中を押されて人に仕える、新しい一週間を始めましょう。
※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「ペトロの嘆きと喜び」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新約聖書 109頁).
讃美=247,243,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
多くの病人を癒し、古代ユダヤ教の多くの会堂で教えを語ったイエス・キリスト。そのイエスは一箇所に留まるのではなく、いろいろなところを巡り歩いていたと本日の箇所に先立って『ルカによる福音書』は語りかけます。そして今やイエス・キリストの働きの場は、イエス自らにも身近であったであろう湖の畔に移ろってまいります。わたしたちはその湖の名が「ガリラヤ湖」ではなく「ゲネサレト湖」となっているところに違和感を覚えたとしても、本日のメッセージでは敢えて重点をおきません。この呼び名は人の子イエスが向き合う、これからイエスに出会う人々がどこに暮していたのかを示すだけであります。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯を指し、その地方から呼んだガリラヤ湖の別名です。同じ山であってもネパール側から見ればエベレスト、チベットの側から見ればチョモランマと呼ぶのと大差はありません。要となるのは、救い主としての働きを始めた人の子イエスに、誰が出会ったのかという事柄です。もちろん本日の箇所までイエスは癒しを必要とする多くの人々と出会ってきたのですが、この湖で出会うのは、人の子イエスの弟子となる者、すなわちシモン・ペトロを始めとしたガリラヤの漁師です。押し寄せてきた群衆に等しく教えを伝えるために、イエスは一艘の舟を借りて岸から少し漕ぎ出すよう頼んだとあります。その折漁師は何をしていたかといえば網を洗っていたとあります。これは漁師としての仕事を終えて破れた網を繕っていることでもあります。漁師の仕事の時間は夜。舟の松明に火を灯して湖へと網を投げてまいります。暗闇の中で漁師は魚を獲るべく模索いたします。幾度と網を投げても網には決して手応えがありません。手応えがあったと思い強引に引揚げれば、水底に沈んだ木っ端に網は引き破られるばかり。この上ない無力感と暮しの絶望の淵に立ち尽くす他なかった漁師の姿がありました。その漁師にイエスは語りかけます。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中にいい加減にしてくれ、素人は黙ってくれとの苛立ちが察せられます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。「何もとれませんでした」とは、事実上の敗北宣言であり、今日からの暮らしをどうすればよいのかという嘆きです。見通しが立たないのです。だからこそその言葉に賭けるほかありません。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。失うものはなにもない。漁には素人の人の子の言葉に賭けるほかなかったのです。
その結果はどうなったか。漁師の予想に反して数え切れないほどの魚が網にかかり、網が破れそうになり、もう一艘の仲間に助けを求め、舟が沈みそうになるまでの収穫を得ることができました。ただし、この箇所で物語が終われば、大漁旗の話でめでたく幕降ろしとなりますが、それにしてははじめてイエス・キリストと言葉を交わした漁師のシモン・ペトロの言動は奇妙です。素直に喜べばよいものを、イエス・キリストの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と呟くのです。ペトロだけではなく、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だったというのです。よくある解き明かしでは、イエスの教えを信じ切れていなかった、半信半疑の漁師たちの畏怖の念が描かれているともされますが、果たしてその理解に留まっていてよいのでしょうか。
実はこの箇所にはまことに象徴的な言葉が散りばめられています。例えば「魚」。「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」との初代教会の信仰告白の頭文字をとりますと「魚」というギリシア語に一致します。これは教会との関わりを尊ぶ人々の連なりを示しているとも読みとれます。しかしさらに問われるのは、福音書という『新約聖書』の書物が、全てイエス・キリストの苦難と十字架での死、そして復活を軸にして展開しているということです。イエス・キリストが大祭司の手下や祭司長の下役に不当に身柄を拘束された後、ペトロは鶏が鳴く前に三度人の子イエスとの関わりを否定します。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないというだろう」。これは使徒ペトロ個人の躓きに留まらず、使徒たちが導いた教会の躓きにも及ぶ言葉です。皮肉ながら、ペトロはイエス・キリストとの関わりを否まなければ、その教えの当事者にはなれませんでした。涙をもって受けとめることができなかったのです。それでは使徒ペトロは弟子失格だったのでしょうか。破門されたのでしょうか。そうではなかったのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。多くの躓きを重ねる弱さを見抜きながら、その度に「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と語るイエス・キリスト。闇の中で頑なにあがき続けるのではなく、神の希望の光の中で、世の只中へと漕ぎ出していき、人々と交わりを育み、広げていく愛の力を信頼しましょう。わたしたちはイエス・キリストを前にして、ただただひれ伏すのみです。それが聖日の礼拝に備えられた「頑なさを砕く」という神の愛に活かされる者の決して軽んじられてはならない、尊い奉仕のわざです。礼拝の尊さです。奉仕が謙遜を失うのであれば、それはイエス・キリストの望まれはしないでしょう。どんなに小さくても、イエス・キリストに背中を押されて人に仕える、新しい一週間を始めましょう。