―降誕節第3主日礼拝―
時間:10時30分~※コロナ禍対策により
しばらくの間、会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
説教=「聞け、わたしの愛する子に」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』3 章15~22 節
(新約聖書 106 頁).
讃美=291,461,545.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
クリスマスの出来事が人の子イエスの世に遣わされた喜びを示すのであれば、ナザレで成人にいたるまで成長したイエスがバプテスマのヨハネより洗礼を授かるという本日の箇所は、教会ではイエス・キリストの公生涯、すなわち救い主としての公の生涯の始まりとして伝えられています。つまりクリスマスの物語とはどちらかといえば神の秘義として本来は隠されているところの物語を書き記しているのに較べまして、洗礼者ヨハネとの出会い以降の物語はあまねく人々に告げ知らせられる福音を人の子イエスのあゆみを通して、わたしたちはより具体的に見聞きすることとなります。同時に「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするためにきた」とあるように、洗礼者ヨハネとの出会いによって一層輝きを増したイエス・キリストのいのちの光が照らした世にある事柄を「喜びの知らせ」である福音書はみな書き記しています。
それは「領主ヘロデが自分の兄弟の妻へロディアとのことについて、また自分の行ったあらゆる悪事」という言葉に代表されるところの、闇にうごめく人間の破れに満ちた姿です。へロディアはもともとクリスマス物語でベツレヘムの幼子を虐殺するヘロデ大王の息子フィリポと結婚した後に、異母兄弟である領主ヘロデと恋仲になり兄弟間で離婚と同時に結婚をするとの裏事情がありました。ヨハネが指摘したのは「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されてはいない」ところです。洗礼者ヨハネは領主の振る舞いに敢然と立ち向かいます。誰から支持されるのでもなく、世にある何者から「そうしろ」と言われたわけでもなく、です。これは原罪というようなぼんやりとしたものでなくて、モーセの律法に対するところの過ちです。つまり現行罪、実際に行った過ちを過ちとして誡めたその結果、ヨハネ自らが囚われの身になっていきます。しかし同時に領主ヘロデ自らはヨハネを正しい聖なる人だと知り、恐れつつ保護し、その教えに喜んで耳を傾けていたとも『マルコによる福音書』は記します。福音書に折に触れて顔を出すヘロデ大王の係累の姿は、そのような振る舞いをただただ諦めの中で黙認するほかない態度の歪みを象徴しています。
しかし人の子イエスもまた、そのような歪みに満ちた世にある人の列に加わって、ヨハネから洗礼を授かろうとします。これはキリスト教の教会で行うところの洗礼とは意味が全く異なる「清めの洗礼」、すなわち洗礼者ヨハネのもとで歪みに満ちた世に踏み出す人の子イエスが、わたしたちの味わう苦しみを全て担って、いのちの扉をこじ開ける生涯の記念とも言うべき場面です。福音書によっては、洗礼者ヨハネがこの出来事を躊躇する描写も見受けられます。しかしもし人の子イエスが歪みを抱えた人々の列に加わらなかったとするならばどのような事態となったことでしょう。わたしたちが暮らしや社会、世にある苦しみや生きづらさをいっさい顧みない、夢幻のような救い主でしかあり得なかったのではないでしょうか。逆に言えばそれは、わたしたちが妄想の中で、仮想現実の中で自己本位に抱くところの理想としての救い主、ユートピア幻想以上でも以下でもない救い主でしかありません。人の子イエスの救い主としてのあゆみは、決してそのようなお花畑の出来事ではないのです。
例えば今、わたしたちは身近にコロナ禍、電気代やガス代、農業では肥料や家畜の餌の価格と直結するウクライナ問題と関係して、さまざまな生活上の不安を抱えています。物価高で食に苦しむこどもたちの貧困の原因は地球規模の視点と地域に根ざす眼差しによって解明されます。『新約聖書』の物語ではより深刻な生活苦の中で救い主を待ち続けていた人々の声として、弟子たちはイエス・キリストに「世の終わりの徴」を問います。それは「生活につきまとう苦難の終わりの徴」とも受けとめられます。その問いにイエス・キリストが答えるには「人に惑わされるな」「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけよ、それは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と、戦争が起こるに決まっており、さらにそれは世の終わりではないと明言いたします。不安に覆われていた人々にこれほど冷静な見通しを語りうる救い主がイエスなのです。それは世の歪みにある人々とともにあればこそ、当事者でありながら神の智恵をもって何ら慌てふためくことなくまことの救いとは何かを、人に表面上の歪みがあろうとなかろうと問わず、神の愛の力をもって、人々を鎮め、平安へと導く道としてお示しになります。
2023年の1月も第2週を迎え、しばし忘れていた課題が目眩とともに重く立ち塞がっているような思いも抱く日もありました。しかし今日の箇所では、イエス・キリストがわたしたちの歪みを担われる徴として洗礼を受けて祈っていると、神の愛であるところの聖霊がイエスに降ったとあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との言葉とともに、です。もしわたしたちが行く道に少しでも不安を覚えるのであるならば、神の愛する子イエスにどうすればよいのか、祈りつつ問い尋ねてみましょう。神は必ず道を拓いてくださります。時に待ちつつ、そして時を違うことなく歩む力を、主なる神は備え給います。