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ー聖霊降臨節第1主日礼拝ー
―ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝―本日の聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』だけに記される独自のイエスの祈りです。他の福音書にはないイエス・キリストの祈りを味わってみますと、キリスト自らの苦しみを訴える「ゲツセマネの祈り」とは、内容が格段に異なっているところに気づかされます。なぜなら、他の福音書では十字架にあげられたときに献げていたはずの祈りの内容に重なるところがあるからです。その内容は、救い主自らの苦しみから発せられる呻きというより、すでにとりなしの性格を色濃く帯びています。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」。これまで繰り返し福音書を味わってこられた方々には、この節には「本当にそうだったのだろうか」という疑問や違和感をお感じになるはずです。なぜなら、福音書に描かれた弟子の誰もが、イエスが人の子として世におられたときには、ボタンの掛け違いのような、内容のかみ合わないちぐはぐな対話に限らず、病に冒された人々の癒しの場に居合わせていたその場で、なおもキリストの癒しのわざを自らの手柄であるかのように自慢げです。そしてついには12弟子が互いに「誰が救い主の次の席に着くのか」との権力争いのように振る舞うからです。むしろ世にあってイエス・キリストが神の平和の実現として示したのは、病を癒された人々そのものであり、「群衆」と記され、イエスのもとに集る名もない人々そのものであり、肌の色も言葉も身体の特性も、家庭の事情も一切問われないところの「こどもたち」でした。もしそのような状況を押してイエス・キリストが「彼らは御言葉を守りました」と言うならば、そのときすでに、神の前にキリストは弟子を「かばい立て」していると言えます。しかし『ヨハネによる福音書』でのそれは「かばい立て」を遙かに超えて、とりなしとなり、それは十字架での贖いへと続いてまいります。『ヨハネによる福音書』は実に丹念に、人がその社会の歪みの中で抱えていく罪、また社会そのものの罪をえぐりながらも、決して人は罪の中には留まらないのだという救い主のみわざと言葉を前面に押し出して描きます。だからこそ、わたしたちもまた、そのあがないの核をなすところの神の愛がなにものなのかと問いながら、平安の中で安心してその答えの中に身を委ねることができるのです。
この箇所には、ロシアを代表する作家ドストエフスキーの代表作である『罪と罰』を重ねずにはおれません。貧困学生であるラスコルニコフは「不当な貧しさの中で苦しむ者は、その不当に貧しくされた者を欺く者からであれば、たとえ暴力を用いてでも奪われたものを取り返せるのだ」との思いに駆られ、金貸しの老婆を斧で殺害します。しかしその後に襲ってくる罪責感に苛まれる中で、貧しさの中で夜の町に立つほかない、絢爛豪華であるはずのロシア帝国の闇に佇む娼婦のソーネチカと出会い、過酷な中でなおも生きる彼女が朗読する『ヨハネによる福音書』に耳を傾ける中で次第に自らの罪を認めていき、自首の後シベリアへと流刑されます。そしてソーネチカもその後を追うのです。神の備えたタイミングは必ず訪れます。イエス・キリストが復活の後、40日を経て天に昇る出来事を「キリストの昇天」と呼びます。召されるのではなくて自ら救い主として神のもとへと昇られるのです。他方でわたしたちの暮らす世にあっては、直接救い主の姿を仰ぐことはない、という時を迎えます。しかしそのような時の中で起きる出来事一つひとつは、うろたえと恐怖に支配されてはいません。なぜならイエス・キリストは、自らの世にあった姿と十字架と復活の出来事を通して今なお神の愛の力を注いでいます。これこそ聖霊の注ぎです。
ウクライナへの特別軍事作戦の名の下、演習が終われば帰宅する約束だったはずなのに行方不明となったロシアの兵士がいます。今や兵士の数が足らず、視力障がいや脳に障がいをもつ若者まで、前触れもなく徴兵されていきます。兵士の母親はもはやロシアにではなく敵国のウクライナのコールセンターに電話します。すでに兵士のデータがロシアのコンピューターから抜き出されて行方が分かるしくみになっています。うろたえ泣きじゃくる母親に、ウクライナの電話担当者は「泣かないでください。息子さんは戦死者のリストにはありません。戦争は痛ましいです。だからこそ平和が来る日を待ちましょう」と語りかけます。平和を実現する者は幸いです。聖霊の注ぎのもと、キリストに慰められ、励まされた者として、神の備えた時に相応しく支えあいましょう。
コロナ禍の中で急速に発達し、そして今ではなくてはならないインフラとして浸透しているのがリモートワークと、キャッシュレス決済というしくみです。正確にはポイントカード制度も含めてコロナ禍以前から技術はありましたが、非接触型業務が感染対策として行政からも企業からも奨められた結果、コンピューター、タブレットパソコン、スマートフォン、電子書籍があって当然のものとなりました。確かに個人的にも立ち入るような、またはトップシークレットの話し合いであれば、外部から不正に情報を入手される場合もありますので直接の会議に出向かなくてはなりませんが、学校の講義や職員会議の全体会といった程度であるならば、充分リモートワークで対応できます。対人関係がどちらかといえば苦手だという方には、これはむしろ朗報かも知れませんし、教会によっては「聖書研究会」や「祈祷会」もすべてリモートで行うところも増えています。新進気鋭の牧師であるほど、そのような選択肢も含めて創意工夫を重ねて、臨機応変な牧会に励んでいるとのこと、時代遅れの牧者からすれば頼もしい限りです。
―復活節第5主日礼拝―
時間:10時30分~2月24日から始まったロシアのウクライナ侵攻で、暮らしを破壊され難民となった人々は少なくとも450万人を数えているとの報せを聞きました。当初は突然やって来たロシア兵に丸腰で詰め寄る市民の姿もありましたが、時が経つに連れてその攻撃も無差別化し、いたるところで廃墟と爆発の映像が流れます。老若を問わず、わたしたちはその映像を見て胸が苦しくなります。そのような残酷さの中で、人間が良心の呵責を次第に失っていく恐怖を覚えずにはおれません。ある写真を観る機会を得ました。それは、花壇を造るときに用いる赤煉瓦で畳一畳ほどの広さを囲ったところに粗末な十字架が立っています。その近くに俯きかげんの表情でパーカーを着た男の子が写真の右端に立つという構図です。盛り土のところには母親の遺体があり、少年が母親を埋めたというのです。言葉もなく、ひたすら頭の中でこどもさんびかの「せかいのこどもは」がエンドレスで流れるばかりでした。「世界のこどもはお友だち 歌声あわせて進みましょう。神の平和が来るように 心をあわせて いのりましょう」。正確にいえば、写真の男の子がロシア人なのかウクライナ人なのかは分かりません。けれども母親を残忍な仕方で失ったことは確かで、その男の子がこれから母親を殺害したであろう誰かを一生憎んで生きていく、そしてそのようなこどもたちの数が数え切れないほどに膨れあがっていくとするならば、情報戦争の名の下で繰り返される非難合戦とは比較にならないほど辛いことであろうと打ちのめされる日を過ごしています。このようなこどもたちは77年前の満州にもいただろう、沖縄にも朝鮮にも上野にも難波にもたくさんいたことだろう。いったいそのうちの何人が憎しみから解放され喜びにあふれた道を歩んだのか、次第に分からなくなりつつあります。
―復活節第4主日礼拝―
時間:10時30分~分刻みで時計の針に追われる暮らしを続けていくというありかた。確かにその中で我を見失うこともあれば、後から考えれば些細な事柄に「それどころではない」と腹を立ててみたり、憤懣やるかたない中で夜半に目を覚ます時もあるかもしれません。けれども毎日があっという間に過ぎていくありかたは、裏を返せば暮らしが軌道に乗っていることでもあり、後々振り返れば順風満帆とはいわないまでも、順調であったといえるかも知れません。翌日のプランを確かめて、お子さんを寝かせながら布団に入る。そして朝はさあやるぞと一念発起してまた一日を始める。忙しかったけれども、あの頃はかわいかったなあとわが子の姿を見て思うときが必ずやってきます。
―復活節第3主日礼拝―
時間:10時30分~
福音書の世界では田畑を耕し、種を蒔く農夫、ぶどう畑で働く労働者、また湖に網を投げて魚を漁る漁師、そして羊を養い育む羊飼いの姿が多く描かれます。この他にも税金を集める徴税人や、小麦やオリーブオイルを販売する問屋業などがあり、パウロは焼き物をつくる陶工職人に神の姿を重ねていますが、福音書で人の子イエスの譬えの中に描かれる頻度からして実に多いのが農業や牧畜に従事する人々です。日々刻々と時間に追われる暮らしにあるわたしたちからすれば「牧歌的」という言葉にあるように、都会人が憧れる田舎暮らしのような世界が広がっているとのイメージが先行しがちですが、実のところは一日中働きずくめで、時には現在でさえいのちを危険にさらすような場にも出くわすまことに過酷な仕事です。