ー聖霊降臨節第1主日礼拝ー
―ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝―時間:10時30分~
説教=「風に吹かれて」
稲山聖修牧師
聖書=使徒言行録 2 章 1~13 節.
(新約聖書 214 頁)
讃美= 186(1.3.4),500,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)というミュージシャンをご存じでしょうか。1941年アメリカ合衆国生まれ。ユダヤ教徒でもあるということからおそらくは聖書への造詣も深く、2016年には歌手としては初めてノーベル文学賞を受賞し世に驚きをもたらしました。このミュージシャンは1962年に『風に吹かれて(Blowin’in the Wind)』を発表し、世界中で歌われました。
How many roads must a man walk down Before you call him a man ? How many seas must a white dove sail Before she sleeps in the sand ? Yes, and how many times must the cannonballs fly Before they’re forever banned ? The answer, my friend, is blowin’ in the Wind The answer is blowin’ in the wind:
「どれだけ道を歩いたら人と認められるのか どれだけ海を渡ったら鳩は羽を休められるのか どれだけ弾が飛び交ったら 永久に禁止されるのか その答えは 友だちよ 風に吹かれ続けている(邦訳 中川五郎)」。わたしたちが気づかなかったり、顔を背けたりしている苦しみや悲しみがそこにはあるのだと吹かれる風につつまれる中で示されているという、豊かにその意味を解き明しできる名曲です。
過越の祭から50日を数える日を五旬節として盛大に祝っていたユダヤ教の世界。モーセがシナイ山で十戒を授かったことを覚えての祭りでした。この50という数字を踏まえて聖霊降臨の出来事が起きた出来事を代々の教会はペンテコステと呼びます。ちなみに英語で五角形はペンタゴンと申します。アメリカ合衆国の国防総省がペンタゴンと呼ばれる理由としてはその建物のかたちが五角をなしているからです。ペンテコステが神の絶対的な平和を実現する神の愛の注ぎと交わりを祝う日であるとすれば、厳めしくそびえ立つペンタゴンは世に戦あるところ何らかの影を落としています。ペンテコステの出来事が「風」に示される神の自由な霊のわざを示すのですから、現代のペンタゴンとはまことに対照的です。
弟子たちは人の子イエスが世の生涯を十字架と復活の出来事の中で全うして天に昇る中で、自分たちの鈍感さや臆病さ、語られる神の言葉への誤解やキリストの苦難のあゆみに顔を背け、忘れようとしていたか、気づかされたに違いありません。イエスが最後の晩餐を囲んだのは過越の祭、エジプト脱出を祝う祭でしたから、その後十字架で処刑されて概ね50日。その中で弟子は文字通り風に吹かれて、キリストの全生涯の示した事柄に突き動かされていく衝動に駆られていきます。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」。ときに『旧約聖書』の中で「炎」とは「水」と同じく清めを意味しますので、弟子たちの言葉が清められていくさまが劇的に描かれます。言葉は生きざまなしには成り立ちません。弟子の生き方もまた、この箇所では大きく転換させられていると受けとめられます。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに話し出した」と申します。
これは何も突然、弟子たちが超常現象のようにマルチリンガルになったと言おうとしているのではありません。キリストの愛が注がれる中で、弟子たちの抱えていた傲慢さや頑なさが根底から打ち砕かれて新たにされ、誰に対してでも謙遜に仕え、神の言葉に聴き従うことで、世の民全てに通じる生き方を体得した結果、「使徒」つまり教会の導き手でありキリストの生きざまと教えの伝え手となったことを示しています。パルティア、メディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方に住む者、イタリアのローマ、ユダヤ人、生涯の途中でユダヤ教徒となった者、クレタ、アラビアから来た者...「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。つまり、諸国の民の壁となりがちな言葉やライフスタイルの違いが、意思疎通の障壁にはならず、それぞれの違いは否定されないままで違いに交わりあえる事態への驚きと喜びを、人々はエルサレムで目の当たりにする場面が描かれます。ただしこの箇所でもまだ現実として神の愛を伝えるわざが困難に満ちていることを示す人々がいます。それは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る者もいたとある通り、聖霊降臨の出来事を傍観しては皮肉っぽく評論している人々もいた、ということなのです。この人たちにはまだ、あなたもイエス・キリストの出来事の当事者なのだとのメッセージは届いていません。
しかし。そのような人々もまた、人の設けた垣根を越える風に吹かれ続けています。『風に吹かれて』という歌は、日本では時代や社会に対するプロテストソングとして歌われてきた面があるのと同時に、神の平和をもたらす聖霊の力を尋ね求めていく人々の歌であるとも聴きとれます。たとえ言葉が違っても、たとえ身にまとう服が異なっても、悲しみに涙ぐむこどもたちの手を握ることができます。また『使徒言行録』10章9節からは、わたしたちが交わりを深める場合の最大の障壁となる「食のしきたり」と関わりつつ、すべてのいのちが祝福される様子が描かれます。世の全ての人々と食卓を囲み、分かちあう時の訪れを待ちましょう。