2022年6月15日水曜日

2022年6月19日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー聖霊降臨節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神さまに背中を押されてあゆむ」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録 4 章 13~22 節. 
(新約聖書 219 頁)

讃美= 30,284(1,2,3),540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 『旧約聖書』でよく知られる話に、ダビデとゴリアテの一騎打ちの物語があります。優れた文明を誇るペリシテ人の軍勢の中から、身の丈2メートルはあるかと思われる大男が現れ、イスラエルの民を挑発します。「わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ」と響くゴリアテの声。この雄叫びを聞き、慄くイスラエルの民の戦列から出てきたのは筋骨隆々の身を甲冑で固めた兵士ではなく、羊飼いの少年でした。その姿に狼狽えるサウル王。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません」と少年ダビデは答えます。
羊飼いの生活が兵士に劣らず過酷なことを物語るとともに、兵士以上に気を張って羊を護り、時にはいのちがけで天敵の猛獣から羊を取り返すのが羊飼いの生業であったことを偲ばせます。そうです。ダビデがゴリアテを討ち取れたのは、神に祈りを献げながら日々の暮らしの中で人間よりも遥かに強大な天敵の猛獣から羊を守ってきたところにその理由があります。どれほどゴリアテが脅したところで、吼えたける獅子や襲いかかる熊に較べれば恐れるに足らず。ダビデに神の霊が宿っていた証しの物語です。
 さて本日の箇所では、エルサレムで神の愛の力、すなわち聖霊のそそぎのもとでイエス・キリストの復活の出来事を証しするペトロとヨハネがいます。そのさまを知った祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々に捕縛され、一晩牢に入れられたとのエピソードが先行して記されます。そして翌日、やはり議員、長老、律法学者がエルサレムに集まり、大祭司アンナスとカイアファ、そしてヨハネとアレクサンドロといった大祭司一族が集まり、ペトロとヨハネを取り囲んで「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問します。その尋問に答えた後の二人の使徒の態度に、ある者は感じ入り、ある者は驚くといった次第が記されます。肝心なのは「二人ともイエスと一緒にいたものである」と分かり、また、不自由な足を二人に癒された男性も傍に立っていたところで、その時代の古代ユダヤ社会の最高権力者でさえ反論できなかったという物語。結局この居並ぶ権力者は、使徒がなしとげた出来事の影響に身震いしながら、それでも足を癒された男性の話が民衆に影響しないように、事実上宣教活動を禁じます。しかしペトロとヨハネは答えます。「神に従わず、あなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうかを考えてみよ。これまで見聞したことを話さずにはおられようか」と一歩も退きません。「議員や他の者たちは、二人をさらに脅してから釈放した」とありますが、その理由とは「皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかった」と記されます。
 しかし考えてみれば不思議な話です。議員や大祭司の権力をもってすればペトロとヨハネの身の上などどうにでもできたはずで、事実『使徒言行録』には「殉教」という仕方で生涯を全うした使徒の名前も記されます。サドカイ派や議員、大祭司からすればペトロとヨハネは自分たちの赦しを得ずに好き勝手に救い主イエスの証しを立てメッセージを語っているわけですから、より厳格な処分もできたはずです。けれども彼らには使徒をそのようにあしらうことはできませんでした。さらには、エルサレムの神殿の「美しい門」という場で癒された男性は40歳を過ぎていた、とあります。この時代でいえば、とうに平均寿命を過ぎていますから、癒したところで実社会で何がどうなるわけでもない、有用かどうかというこの世の視点からすれば話題にすら上らない男性でした。しかしこの有力者たちがペトロとヨハネの宣教活動にとどめを刺せなかったのは、癒された男性も含めての「民衆を恐れていた」というその一点に絞られます。大祭司も律法学者もサドカイ派の人々も、もとはといえば民衆を神の備えた道にふさわしく導く羊飼いとしての力を授けられていたはずです。しかし実際に恐れているのは、本来は羊の群れとして導くべきところの民衆であり、神はその眼中には入りません。エルサレムの権力者たちには、ナザレのイエスはキリストではなく十字架で呪われた者のはずでした。しかしその思惑は大きく外れ、民衆にとって羊飼いの役目を果たしているのは、今や「無学な普通の人」に過ぎない、しかし聖霊に背中を押されて語るペトロとヨハネであり、なおかつその影響は民衆に広まっていくという渦巻に巻き込まれていきます。
 聖霊降臨節の第三主日。『使徒言行録』の物語を聴きとるにあたって、わたしたちはあまりにも議員や大祭司のようなありかたに凝り固まってはいないかどうかを神の前に吟味してみましょう。イエス・キリストは99匹の羊を青草の原で主なる神に委ね、迷い出たところの一匹の羊を探し出し、獅子の牙や熊の手から奪い返す救い主でもあります。たった一匹の羊の声が、99匹の羊に大いなる警鐘となっているのを聞き漏らさないお方です。羊飼いイエス・キリストは羊の群れを護るために自由自在に、流れる水のようにそのかたちを導いていくお方です。わたしたちがわれ知らずして藪に潜む熊の近くに踏み入れたとき、神様はわたしたちの背中を押し、救い出します。社会での立場は移りゆく世の責任のみを意味します。まずいのちを愛する神を見つめ祈りましょう。