―キリストの昇天―
時間:10時30分~
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本日の聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』だけに記される独自のイエスの祈りです。他の福音書にはないイエス・キリストの祈りを味わってみますと、キリスト自らの苦しみを訴える「ゲツセマネの祈り」とは、内容が格段に異なっているところに気づかされます。なぜなら、他の福音書では十字架にあげられたときに献げていたはずの祈りの内容に重なるところがあるからです。その内容は、救い主自らの苦しみから発せられる呻きというより、すでにとりなしの性格を色濃く帯びています。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」。これまで繰り返し福音書を味わってこられた方々には、この節には「本当にそうだったのだろうか」という疑問や違和感をお感じになるはずです。なぜなら、福音書に描かれた弟子の誰もが、イエスが人の子として世におられたときには、ボタンの掛け違いのような、内容のかみ合わないちぐはぐな対話に限らず、病に冒された人々の癒しの場に居合わせていたその場で、なおもキリストの癒しのわざを自らの手柄であるかのように自慢げです。そしてついには12弟子が互いに「誰が救い主の次の席に着くのか」との権力争いのように振る舞うからです。むしろ世にあってイエス・キリストが神の平和の実現として示したのは、病を癒された人々そのものであり、「群衆」と記され、イエスのもとに集る名もない人々そのものであり、肌の色も言葉も身体の特性も、家庭の事情も一切問われないところの「こどもたち」でした。もしそのような状況を押してイエス・キリストが「彼らは御言葉を守りました」と言うならば、そのときすでに、神の前にキリストは弟子を「かばい立て」していると言えます。しかし『ヨハネによる福音書』でのそれは「かばい立て」を遙かに超えて、とりなしとなり、それは十字架での贖いへと続いてまいります。『ヨハネによる福音書』は実に丹念に、人がその社会の歪みの中で抱えていく罪、また社会そのものの罪をえぐりながらも、決して人は罪の中には留まらないのだという救い主のみわざと言葉を前面に押し出して描きます。だからこそ、わたしたちもまた、そのあがないの核をなすところの神の愛がなにものなのかと問いながら、平安の中で安心してその答えの中に身を委ねることができるのです。
この箇所には、ロシアを代表する作家ドストエフスキーの代表作である『罪と罰』を重ねずにはおれません。貧困学生であるラスコルニコフは「不当な貧しさの中で苦しむ者は、その不当に貧しくされた者を欺く者からであれば、たとえ暴力を用いてでも奪われたものを取り返せるのだ」との思いに駆られ、金貸しの老婆を斧で殺害します。しかしその後に襲ってくる罪責感に苛まれる中で、貧しさの中で夜の町に立つほかない、絢爛豪華であるはずのロシア帝国の闇に佇む娼婦のソーネチカと出会い、過酷な中でなおも生きる彼女が朗読する『ヨハネによる福音書』に耳を傾ける中で次第に自らの罪を認めていき、自首の後シベリアへと流刑されます。そしてソーネチカもその後を追うのです。神の備えたタイミングは必ず訪れます。イエス・キリストが復活の後、40日を経て天に昇る出来事を「キリストの昇天」と呼びます。召されるのではなくて自ら救い主として神のもとへと昇られるのです。他方でわたしたちの暮らす世にあっては、直接救い主の姿を仰ぐことはない、という時を迎えます。しかしそのような時の中で起きる出来事一つひとつは、うろたえと恐怖に支配されてはいません。なぜならイエス・キリストは、自らの世にあった姿と十字架と復活の出来事を通して今なお神の愛の力を注いでいます。これこそ聖霊の注ぎです。
ウクライナへの特別軍事作戦の名の下、演習が終われば帰宅する約束だったはずなのに行方不明となったロシアの兵士がいます。今や兵士の数が足らず、視力障がいや脳に障がいをもつ若者まで、前触れもなく徴兵されていきます。兵士の母親はもはやロシアにではなく敵国のウクライナのコールセンターに電話します。すでに兵士のデータがロシアのコンピューターから抜き出されて行方が分かるしくみになっています。うろたえ泣きじゃくる母親に、ウクライナの電話担当者は「泣かないでください。息子さんは戦死者のリストにはありません。戦争は痛ましいです。だからこそ平和が来る日を待ちましょう」と語りかけます。平和を実現する者は幸いです。聖霊の注ぎのもと、キリストに慰められ、励まされた者として、神の備えた時に相応しく支えあいましょう。