2022年5月12日木曜日

2022年5月15日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―復活節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「主イエスと手をつないで」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 15 章 1~10 節. 
(新約聖書 198頁)

讃美= 21-57(1.3.4),285(1.2.4),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 2月24日から始まったロシアのウクライナ侵攻で、暮らしを破壊され難民となった人々は少なくとも450万人を数えているとの報せを聞きました。当初は突然やって来たロシア兵に丸腰で詰め寄る市民の姿もありましたが、時が経つに連れてその攻撃も無差別化し、いたるところで廃墟と爆発の映像が流れます。老若を問わず、わたしたちはその映像を見て胸が苦しくなります。そのような残酷さの中で、人間が良心の呵責を次第に失っていく恐怖を覚えずにはおれません。ある写真を観る機会を得ました。それは、花壇を造るときに用いる赤煉瓦で畳一畳ほどの広さを囲ったところに粗末な十字架が立っています。その近くに俯きかげんの表情でパーカーを着た男の子が写真の右端に立つという構図です。盛り土のところには母親の遺体があり、少年が母親を埋めたというのです。言葉もなく、ひたすら頭の中でこどもさんびかの「せかいのこどもは」がエンドレスで流れるばかりでした。「世界のこどもはお友だち 歌声あわせて進みましょう。神の平和が来るように 心をあわせて いのりましょう」。正確にいえば、写真の男の子がロシア人なのかウクライナ人なのかは分かりません。けれども母親を残忍な仕方で失ったことは確かで、その男の子がこれから母親を殺害したであろう誰かを一生憎んで生きていく、そしてそのようなこどもたちの数が数え切れないほどに膨れあがっていくとするならば、情報戦争の名の下で繰り返される非難合戦とは比較にならないほど辛いことであろうと打ちのめされる日を過ごしています。このようなこどもたちは77年前の満州にもいただろう、沖縄にも朝鮮にも上野にも難波にもたくさんいたことだろう。いったいそのうちの何人が憎しみから解放され喜びにあふれた道を歩んだのか、次第に分からなくなりつつあります。
 もしその子たちを憎しみの呪縛から解き放つことができるというなら、そこには出会いしかないだろうと考えます。それは可能性でしかありませんが、決してゼロではありません。難民という道筋ではなくても、両親から見捨てられてしまったという悲しみが癒され、絶望の扉が打ち破られるとするならば、そこには出会いしかありません。その出会いの中で死に体の人生に新たにいのちの息吹を注がれたという牧師をわたしは知っています。今年93歳になるはずの、金城重明牧師です。不思議な導きで、12年前に天に召されたわたしの母が、高校生の頃に教会の献身キャンプで神学生として出会い、極々たまに連絡をとりあっていたと申します。島民の四分の一が亡くなったと言われる沖縄戦でも特に激戦地となった渡嘉敷島の洞窟で「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けた金城少年は米軍に囲まれ集団自決を図り、母親を殺害して米軍陣地に突撃しようと試みます。しかしそこで目撃したのは、あろうことか累々と連なる日本兵の捕虜の群れでした。「死ねといっておきながら、大人はなぜおめおめと」という、家族を殺めた深い罪責の念と「生きて虜囚の辱めを受けず」と恥ずかしげもなく語り、人々に説諭して回った大人への腹の底からの憎しみは想像を絶するものだったでしょう。しかしその金城牧師が憎しみを超えて教会に連なり、高校生のキャンプの準備をし、笑顔で接するようになったところに、わたしは神様のみわざを感じずにはおれません。そういう言葉を軽々に用いるなといわれても、やはりそこには神の働きがあったとしか申しあげようがないのです。
 本日の聖書の箇所には、新共同訳では小見出しに「イエスはまことのぶどうの木」とありますように、コロナ禍で聖日礼拝を献げることすら躊躇われるような状況を何度もくぐり抜けた、昨年の泉北ニュータウン教会が懸命になって確かめ続けたところのメッセージが記されています。政府の官房長官が公式に「屋外マスクは距離があれば不要」とアナウンスする規制緩和が出るまで、いったい何名の方々の弔いを感染リスクを避けて「家族葬」としなくてはならなかったというのか。生き死にを問わず、わたしたちの交わりが、果たしてイエス・キリストに根ざしているのかどうかと問われるこの三年目です。もちろん這ってでも教会に来なさいというような精神論、またそのような教会員のみが「立派だ」として賞賛されるような雰囲気は、幸いにして泉北ニュータウン教会は見られませんでした。わたしたちが手にしているのは「教育勅語」や「戦陣訓」ではなくて『聖書』です。だからこそイエス・キリストは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とお話しになります。教会の聖日礼拝、またはリモート礼拝、聖書の言葉を味わい、祈る度に、主イエスがわたしたちの手をつないてくださっていることが分かります。各々の暮らしの課題が重いほどに、その手は堅くわたしたちの手をとって離しません。
「世界のこどもはおともだち 両手をつないですすみましょう きょうも一日イエスさまの おことばおぼえてはげみましょう」。これは旧版のこどもさんびかの歌詞ですが、本日の聖書の箇所と重ねるのであれば、これは単なる歌詞に留まらず、ありかたとして全く曇りのない言葉です。どのような報せにもうろたえずに、キリストに根を下ろして新しい一週間を始めたいと願います。