2022年5月5日木曜日

2022年5月8日(日) 父母の日礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―復活節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「おたがいに愛しあいながら」 
稲山聖修牧師

聖書=ヨハネによる福音書 13 章 31~35 節. 
(新約聖書195 頁). 

讃美= 461(1.2.4),Ⅱ 167(1.2.4.5),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 分刻みで時計の針に追われる暮らしを続けていくというありかた。確かにその中で我を見失うこともあれば、後から考えれば些細な事柄に「それどころではない」と腹を立ててみたり、憤懣やるかたない中で夜半に目を覚ます時もあるかもしれません。けれども毎日があっという間に過ぎていくありかたは、裏を返せば暮らしが軌道に乗っていることでもあり、後々振り返れば順風満帆とはいわないまでも、順調であったといえるかも知れません。翌日のプランを確かめて、お子さんを寝かせながら布団に入る。そして朝はさあやるぞと一念発起してまた一日を始める。忙しかったけれども、あの頃はかわいかったなあとわが子の姿を見て思うときが必ずやってきます。
 しかしそのような当たり前の暮らしが突然絶ちきられてしまう、という事態にわたしたちは出遭う場合もあります。なるべくならばそのようなところに身を置きたくないのですが、それは突然やってきます。例えばわたしたちが日曜日は教会として、ウィークデーは「こひつじこども園」、「放課後等デイサービスこひつじ」の働きのために用いているこの施設が建てられ荷物が搬入されたのは2011年3月11日、東日本大震災の起きたその日。地震だけでなく大津波、火災や家屋の倒壊、原子力発電所の爆発も含めて12都道府県で18,717名の犠牲がもたらされたその日。北日本に響く日常の絶たれた親たちの声、こどもたちの声に茫然としながらも、園関係者・教会関係者は何ができるのだろうかと日々の保育のわざとともに手探りに明け暮れた日々だったと聞きます。
 同時に今日にいたるまで政の舵取りが必ずしもうまく及ばず、その結果として極端な格差社会がもたらされてしまいました。この施設と保護者の方々が関わるとき「こども園」とお呼びのことでしょうが、これは昨年来のことで、それまでは「保育園」、つまり社会福祉を軸としていることが鮮やかでありました。事業体としてブランドを志向するよりも、どれだけ社会のセーフティーネットとして機能しうるのかと働き人は絶えず自問しています。見渡し通りに暮らしが続けば、人々は福祉にはさほど関心を向けません。しかし実際にはそういかないからこそ、社会福祉というインフラが必要です。それでは、なぜそのような福祉が、福祉事業そのものに特化せずに、教会と密接にリンクしているというのでしょうか。中途半端なことをせずに働きを分離して各々特化すればよいではないかとの声もあったでしょうが、あえてわたしたちは「車の両輪」という言葉を尊んでまいりました。それは泉北ニュータウン教会・当時のこひつじ保育園創立者の土山牧羔牧師の着想によります。仮に保育園が単体で事業を拡張していった場合、その事業が自己目的化するという可能性があります。実例は全国いたるところにありますが、いつの間にか収益事業体と化した社会福祉法人がさまざまな問題や事故を起こして倒れていくケースがあります。しかしわたしたちの場合は、保育のわざが礼拝を始めとした教会のわざと堅く結びつき、保育の眼差しそのものが自己目的ではなく、必ず園児さん、そして保護者の方々に向かうよう整えられます。それはイエス・キリストが神の愛のわざを行う生涯を全うされていった足跡を絶えず思い起こすところに根拠があり、誰よりも主イエスが車の両輪をつなぐシャフトとなってくださっているのです。そしてキリストの教会が園児さん、卒園していったこどもたち、また保護者の方々が肩の荷を下ろす場として用いられることによって、神が備え給う安らぎを分かちあう交わりが地域社会に根を下ろしてまいります。そこには「こどもたちによりよく仕えることができますように」との祈りが響きます。
 本日の聖書の箇所で、イエス・キリストは次のように弟子に語ります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。この箇所でいうところの「愛」とは、奪うのではなく、「愛し合う」といった、誰かとの尊い関わり、いのちとの尊い関わりが示されます。さらにその愛は見返りを求めず、わたしたちの日常という「足下」に隠されています。何よりも大事なのは、わたしたちが暮らすこの世の利害には全く根拠がないところです。何かの能力に長けているとか、経済力があるとか、社会が求めるところの健康だとかといったことは問われず、親子の間の血のつながりさえも問われません。母マリアは処女懐胎という仕方で、福音書の物語ではイエスを身籠もっています。さらに注目したいのは、イエスがこの教えを語っているのは、弟子であるイスカリオテのユダの裏切りを公然と認めた後の話で、きれい事では済まないという一面もある点です。イエス・キリストは裏切りを恐れません。弟子の期待に失望するどころか「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言うのです。互いに労りあい、互いに敬いあい、互いに育みあう間柄。平和な世にあっても、そうではない世にあっても、イエス・キリストという変わらない神の愛の戒めを頼りにしながら、こどもたちを育むというわざは続けられます。保護者の方々もぜひ、イエス・キリストを通し、己の至らなさを赦し、思いがけない変化を受け入れ、いのちを養い育むわざに触れてくださればと願います。