2019年12月1日日曜日

2019年12月1日(日) 説教

「救い主は必ず来る」
『イザヤ書』52章7~10節
説教:稲山聖修牧師


66章からなる『イザヤ書』。この書物は概ね三部に分かれる。1章から39章まではエルサレムが滅亡にいたるまでの40年間のイザヤと呼ばれる預言者の言葉、40章から55章まではバビロン捕囚期に活動した第一イザヤに連なる預言者の言葉、そして56章から終章まではバビロン捕囚の後にエルサレムへと帰還し、その地で直面した新しい課題に向き合いながら、イスラエルの民を超えて異邦人へと広がりゆく神の国の訪れを決定的な希望として語った言葉が記されるという。今朝味わうのは抑留されていた時代を背景とした文章である。
 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられたと、シオンに向かって呼ばわる」。抑留の地において、この預言者は喜びの訪れを語る。「良い知らせを伝える者の足」。遣わされた使者のメッセージは「よい知らせ」。「福音」という言葉元来の意味はイザヤ書にあるとおり「よい知らせ」だ。その知らせは何に繋がるのか。それは「平和」であり「救い」。そしてその平和と救いは「あなたの神は王となられた」という堅く結びつく。そして「あなたの神は王となられた」。「王が神となった」のではなく「神が王となった」。この言葉にはこれまで犯し続けてきたイスラエルの民の過ちの歴史が暗示される。

出エジプトの旅が終わり約束の地に入り長い月日が経ち、サムエルという人物が人々を導いていたそのとき、イスラエルの部族には異邦の民の干渉を招く内紛が数多くあった。その中ではサムエルの息子もまた「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」。現状打開のために長老たちは中央集権的な政治体制の象徴でもある王を求めるが、サムエルにはその言い分は悪と映った。祈りの中でサムエルは聴く。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」。『サムエル記上』8章では、このありようが同書に描かれるイスラエルの民の過ちの端緒として記される。この過ちを踏まえてこその「あなたの神は王となられた」との言葉。それはイスラエルの民の態度の転換だけには留まらない。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。抑留の地から遠く、廃墟となったエルサレムに希望が語られる。うち捨てられたその街には絶望や嘆きではなく、喜びが戻るのだ。
旧約聖書の物語には、過ちを犯した民を救おうとするとき、神は天使を派遣して人々を精査するというパターンがある。しかしもはやそのような精査は不要である。バビロン捕囚そのものが民の過ちを示しているからだ。人々は粉々に砕かれている。この絶望のただ中で、神の遣わす唯一無二の救い主の訪れが待望される。

バビロン捕囚という、言葉にできない悲しみと囚われの中で、イスラエルの民は自らは鎖に繋がれたまま、なおも神が備えたもういのちの希望のメッセージに耳を傾けた。「平和と恵みの良い知らせ」に包まれ希望を備えられた。現代のわたしたちはバビロン捕囚ならぬ、利己主義と虚構に溢れたエゴイズム捕囚の中にある。見えない鎖で自分自分をがんじがらめにしては責任転嫁を平然と行なう。その頑なな心を、飼い葉桶に安らう乳飲み子イエス・キリストは「弱さ」という力でもって見事に打ち砕く。そして廃墟に重なる荒んだ心に「ともに喜び歌え」とのメッセージを届け、隣人との交わりの扉を開く。この喜びに包まれて礼拝は献げられる。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と『詩編』で詩人が語るように。神の前に崩れ落ちて胸を打ち叩いて悲しむ人々の祈りが、喜びに変わる。その出来事が救い主との出会いの中で起きる。今、この時代。待降節の中、キリストとの出会いを待ち望み、祈らずにはおれない。

2019年11月24日日曜日

2019年11月24日(日) 説教

「神の平和の実りを告げる」
『ヨハネによる福音書』18章37~38節
説教:稲山聖修牧師

 イエス様がお働きになった場所では、稲の代わりに麦を育てて人々は暮らしていました。お米は炊いてご飯にしたり、お餅にしたりしていただきますが、麦は石臼で引いて粉にし、パンにして食べます。上等の小麦を食べられるのは少しの数の偉い人ばかり。それでもみんながお腹を空かせることなく暮らせるのはとても大切なことでした。けれどもそのような暮らしでさえ続けるのは難しいものでした。戦争が起きれば兵隊さんの食べ物として持っていかれてしまいます。日本ではあまり見かけませんが、バッタの群れに襲われて麦が全て食べられてしまうこともあります。草がとれない寒い季節には麦わらは家畜の餌にもしますが、やはりこれも軍隊がとっていってしまうことも多かったと聞いています。お金持ちは汗水垂らして集めた麦を僅かばかりのお金で買い取って高く売ろうとします。農家の人は本当に苦労ばかりしていました。

 そのような農家の人々を始めとした有名ではない人々とイエス様はお話をしたり、外には出られないような病気に罹った人、目の見えない人、耳の聞こえない人の苦しみを癒して回りました。あるときには、生まれつき目の見えない人に出会われたこともあります。畑仕事もできない人でした。お弟子さんはイエス様に尋ねます。「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。イエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現われるためである」。イエス様はそうやって多くの人を支えたり、励ましたり、病気を治したりしていかれました。けれどもこれが、イエス様の時代の偉い人やお金持ちの人々には気に入らなかったのです。気に入らなかったというより、怖かったといったほうがよいでしょう。なぜならば、イエス様はどんなに立派なお屋敷に暮らしていても、お金をどれほどたくさんもっていても、できないような神様のお仕事を次から次へと行っていきますし、イエス様と出会った人々は、お金持ちの誰よりも幸せそうな顔をしているからです。人々のお腹を空かせたまま、病気のままでほったらかしにする王様よりも、本当の王様はイエス様なのでないかという人も出てきました。偉い人やお金持ちはイエス様がだんだん邪魔になってきました。辛い思いをしている人を励ます言葉でさえ、うるさい言葉としか聞こえなくなってきました。そしてとうとう、やってもいない疑いをかけられて、イエス様は逮捕されてしまったのです。「この人は自分を王様にしたい悪人だ」。多くの人を助けたイエス・キリストは、今度はご自分が助けた人の味わった苦しみをともにすることとなりました。



 今日の箇所はイエス様が裁判を受けている場面です。ピラトという人は、ローマの身分の高い、裁判官よりも身分の高いところでイエス様が助けたような貧しい人を王様よりも強い力で支配している人でした。ピラトは尋ねます。「お前はやはり王なのか」。イエス様が答えるには「王様だと言っているのはあなたの方です。わたしは何が正しいのか分かるようになるために生まれました」。ピラトは尋ねるには「正しい事とは何のことだね」。イエス・キリストは黙っていました。なぜかと言えば、ピラトは自分の聞きたいことしか聞こうとしないことはイエス様には分かっていたし、苦労しながら麦を育てたり、あまりにも貧しくて麦を育てることもできない人の話など、お屋敷に住んでいるピラトが聞くはずもないと分かっていたのかもしれません。ピラトはとうとう「この男には何の罪も見いだせない」と言う始末でした。ピラトはイエス様が悪いことを何もしていないと認めてしまったのです。それではなぜイエス様は十字架にかけられてしまったのでしょうか。わたしたちが長い時間をかけて祈り考えなくてはならないことです。

 イエス様は苦しんでいる人々の苦しみや悲しみを背負うためにこの世にお生まれになったと聖書には書いています。みなさんは一日何度食事をしますか。それも食べられないおともだちがわたしたちのすぐ隣に暮らしています。今朝の礼拝で献げてくださった食べ物はそのおともだちと分けあいます。どうかそのおともだちを心から尊敬してください。そのようなイエス様のお仕事が、わたしたちにも任されているのだと思い起こしましょう。

2019年11月17日日曜日

2019年11月17日(日) 説教

「渇きをうるおすキリストの滴」
『ヨハネによる福音書』6章28~35節
説教:稲山聖修牧師



 本日の聖書は『ヨハネによる福音書』の物語。『ヨハネによる福音書』は他の福音書に比較すると、歴史的なイエス・キリストの歩みをたどるというよりは、他の福音書を下敷きにして救い主の姿をあらためて思いめぐらし、その時代のものの考え方の限界に対して、旧約聖書のアブラハムの神、出会いの中でハプニングを起こされる神、そして復活という道筋の中でわたしたちの世界と死後の世界の垣根を吹き飛ばす神を問いかけ、そしていかなる世にあっても、いのちの光を絶やすことのないイエス・キリストのメッセージを衝突させて、キリストの勝利を讃えようとする色彩に溢れているように思われる。
 今朝の箇所は、湖の畔でイエス・キリストが五千人に五つのパンと二匹の魚を分かち、人々を満たした出来事の翌日という設定だ。イエス・キリストがパンを分かち合う恵みというハプニング、すなわち奇跡を行なった箇所から物語は始まる。キリストと弟子を求める群衆は、懸命に追い続け、ついには前日の場所からは向こう側の岸辺にいたことを突きとめる。そして語るには「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」。


 キリストが答えるには「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。キリストを探し求めてきた群衆はその多くが無名であり、従って概ね貧しい人ばかりだ。だからパンを食べて満腹したからキリストを求めたからとしても何ら咎め立てを受ける筋合いはない。けれどもキリストは語る。救い主の訪れであるときのしるしを見なさい!と。そして「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子をお認めになり、証しされたからである」。
 イエス・キリストは群衆にさらなるステップアップを求める。それは修行や訓練を前提ではなく、すでにキリスト自らを探し求める道のりに明らかだ。濃密な対話のもと、群衆は問いかける。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。イエス・キリストが答えるには「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。群衆が問うには「それではあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒野でマナを食べました」。群衆は旧約聖書『出エジプト記』にある、エジプト脱出のただ中で、飢えに苦しむ難民同然の人々に神が食べさせた食糧を想起する。イエス・キリストは答える「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」。イエス・キリストは、食糧を備えたのはモーセでなく、あなたがたの先祖を奴隷の住いから解放したアブラハムの神であると断言する。人々の眼差しをモーセその人から、その人物が生涯を賭けて示そうとした出会いの神、奴隷解放の神へと誘おうとする。群衆は熱心に問いかける。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。キリストが答えるには「わたしはいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない」。
 『ヨハネによる福音書』19章28節では、この福音書ならではの祈りが込められた、イエス・キリストの言葉が記されている。磔刑にされて絶命する際にキリストが語った言葉は「渇く」であった。イエス・キリストは救い主としての働き全てを通して、出会う人々の渇きを満たし、自ら「渇く者」となった。救い主はそのような苦しみをもって、わたしたちに復活のいのちを備えてくださった。
 
 わたしたちは本日教会のバザーを行なう。確かにバザーの収益は大切だが、それ以上に大切なものがある。それはイエス・キリストに根を降ろす教会の交わりを通して育まれる潤いだ。効率とひき換えに交わりを失った現代の「渇いた時代」に教会はあらゆる仕方で神の潤いを分かち合おうとする。わたしたちは喜びに満ちたハプニングとしての出会いを求めていきたい。今日一日を神さまの愛の力に満たされた素晴らしい日にしたいと思う。

2019年11月10日日曜日

2019年11月10日(日) 説教

「おさなごに証しする神の愛」
『ヨハネによる福音書』8章55~59節
説教:稲山聖修牧師


石川県の犀川沿いには口伝承の物語として次のような話があるという。暴れ川として知られるこの川にほど近い村に弥平という父親と、お千代という娘が暮らしていた。お千代は手まり遊びが大好きな娘だった。
お千代が熱を出してしまい生死の境を彷徨う。思い詰めた弥平はお千代がうなされながら呟く「小豆まんま食べたい」という願いを叶えるために一度だけ盗みを働く。庄屋の家に入り一握の米と小豆をぼろ布袋に入れて、お千代にその粥を食べさせた。そのお陰かお千代はみるみる健やかになって「小豆まんま食べた、うんめいまんま食べた」と歌いながら手まり遊びをした。
長雨が続く。川が溢れんばかりの勢いで流れていく。氾濫が迫るとき村では人柱を立てる倣いがあった。川の主(ぬし)によからぬことをしたとの疑いをもたれた者が人柱となる。お千代の手まり唄を聞いたという者が現れ、その年の人柱は弥平となった。お千代はそのわけを後日村人から聞き、幾日も泣き続けた後、言葉を失い、とうとう村から姿を消した。さて何年も経った後、村はずれに住う猟師が、久しぶりに獲物に恵まれたと喜んでいたとき、見覚えのある面影の娘が木陰に立っていた。ぽつりと言うには「雉も鳴かずば撃たれまい」。
この伝承の背後には、人柱という慣わしへのやり場のない憤りと悲しみがある。最も悲劇的なのは、お千代の手まり唄が川の氾濫に劣らない悲しみをもたらすところだ。おさなごの天真爛漫さが父の死の呼び水となってしまう。義憤と悲しみがなければ物語は決して語り伝えられなかったはずだ。
ところでこの伝承とは対照的に、おさなごの天真爛漫さが世の権力に打ち勝つ物語をわたしたちは知っている。「自分の地位にふさわしくない者には見えない布地」で作られた衣装でお披露目のパレードをして、大人たちがおべんちゃらの拍手をする中、あるこどもが「なんにも着てないよ!」と叫び、続いて群衆の中に「なんにも着ていらっしゃらないのか?」とざわめきが広がり、遂には「何も着ておられない!」という騒ぎの中、パレードは続くという社会風刺の物語。アンデルセンの童話「裸の王様」だ。おさなごの天真爛漫さという宝がどのような彩を放つのか。これがこどもたちの置かれた社会を映す鏡として、物語の書き手や言い伝えの担い手すら気づかないないままに描かれているようでもある。

イエス・キリストもある種の天真爛漫さを湛え、無邪気さに溢れているように思える。その天真爛漫さや無邪気さは、わたしたちのそれと深く共鳴するところだ。イエス・キリストは決して悟りを開いた人物ではなかった。エルサレムの都を眺めてそのさまを嘆いては涙し、徴税人と食卓を囲んでは笑顔とともに語らい、エルサレムの神殿の境内で両替商の机をひっくり返す気性の激しさももつ。その振る舞いの源は、父なる神と直接結びついたところの天真爛漫さだ。だからこそイエス・キリストは絶えず真理を示し、恐れ知らずである。
「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」と迫る反対者を恐れずにイエス・キリストは語る。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである」。反対者たちが「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエス・キリストは答える。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる以前から、『わたしはある』」。「わたしはある」とは、『出エジプト記』でモーセがホレブ山に登った時に示されたアブラハムの神の名前。イエス・キリストはこの言葉を語ることによって、自らが神から遣わされた救い主であることを示す。究極の天真爛漫さとしての姿をも併せもつ、神の言葉という真理がそこにある。
今わたしたちがこどもたちに証しできるのは何か。手がかりはお千代のために泥を被りながら遂には生き埋めにされていった弥平の姿だ。しかしわたしたちが受けとめる弥平の姿は、口伝承の弥平とはその姿を変えている。「雉も鳴かずば撃たれまい」から「屋根の上で時の訪れを告げ知らせる雉の声」となっている。その声は村中に響き渡り、おさなごに「もう泣くことはない」「どんどんてまり遊びをしなさい」「安心してご飯を食べなさい」「喜びの歌を歌いなさい」と語りかけ、大空を駆けていく御使いとなった弥平の姿がある。人柱としていのちを奪われても、神の愛が世におよび完成するとき、キリストにあって復活する弥平の姿だ。「わたしはある」という名のアブラハムの神は語る。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。イエス・キリスト自らが、主の祈りの中で「父よ」と呼ばわったように、わたしたちも「天にましますわれらの父よ」と始まる「主の祈り」を献げることを赦されている。イエス・キリストに根を降ろす中で、齢を重ねながら、わたしたちもまた神の子の一人としての祝福に授かる。「大丈夫だ。わたしはいつもあなたとともにいる」。インマヌエルの神・イエス・キリストがおさなごたちを自らの愛でつつんで導き、おとなを正気に立ち返らせてくださるのだ。



2019年11月3日日曜日

2019年11月3日(日) 説教

『ヨハネによる福音書』3章16~21節
「真理の足跡をたどって」
説教:稲山聖修牧師

わたしたちの世のあり方は一人ひとりのかけがえのない歩みを、交換可能なデータという仕方で、また情報として扱うという一面をもつ。それは現代の情報化社会ではやむを得ないところではある。けれどもその「やむを得ない」ところに胡座をかくならば、わたしたちは神が授けたいのちの尊厳を見失うことにもなる。永眠者記念礼拝で覚えられる兄弟姉妹は一人ひとりがかけがえのない顔をもっており、その人ならではの歴史を世に刻んでこられた方々であるのにも拘らず、である。しかし旧約聖書を重んじ、アブラハムの神との関わりを何よりも大切にする人々は、いのちというものが、自らの思いも含めて決して意のままにはならないどころか、言語を絶する状況の中でもなお特別な役割を託されたと確信した上で、同胞の死にざまだけでなく生きざまをも証言する役目を深く自覚していく。かの人々は僅かな隙間であっても神の授けたもう可能性に賭ける。そして齢を問わずその責任を全うするというところに旧約聖書の民の希望がある。その希望に満ちた眼差しは、神の愛の支配へと向けられ、そして次の世代の人々との関わりをより堅くする、まだ見ぬ未来へと向かっている。

それでは福音書に記されているところの真理について、わたしたちはどのように語るべきであろうか。天に召された兄弟姉妹の歩みに示された道。それは朧であるにせよ、確たるものとして証しされたアブラハムの神の真理であり、イエス・キリストが示された真理であり、人々がそれによって自由にされるところの真理である。『ヨハネによる福音書』3章19節には次のようにある。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行なう者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである」。天に召された兄弟姉妹が歩まれた世がこの言葉に重なる。また同時に、この聖書の言葉はもう一つ大切な事柄をわたしたちに語る。それは「それが、もう裁きになっている」との一節である。わたしたちはもはや世を裁く必要はない。神の刻まれた歴史に手を加えようとする者を、さまざまな偽りを語る者を、誘惑する者を恐れたり、断罪する必要すらない。なぜならば、神が自らの手によってそのような世に介入され、苦しむ者を助けあげてくださるからである。そのような神の愛のわざが、イエス・キリストによって示されている。「しかし、真理を行なう者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。天に召された兄弟姉妹は、各々世にあってさまざまな葛藤や苦悩を抱えて歩まれていった。しかしそれらの葛藤や苦しみが、イエス・キリストにあっては和解と喜びに変えられるのである。




今わたしたちは、天に召された兄弟姉妹とともに礼拝を執り行っている。それは決して懐かしい時代への想起には留まらない。それどころか、イエス・キリストを通して、わたしたちには、天に召された兄弟姉妹と語り合うことまでも赦されており、ぜひともそうするべきである。それは単なる死者との対話ではない。イエス・キリスト自らも、山の上でモーセやエリヤと語り合われたと聖書には記されている。新約聖書の舞台では、モーセもエリヤもその人としては天に召されているが、イエス・キリストは神の栄光のもとで語り合う。それは活ける神の歴史との対話だからである。それはわたしたちもいのちの光の中で再会するであろうところの、復活を約束された、まことに大切な方々との対話である。「イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」とわたしたちは使徒信条を告白する。イエス・キリストは古代にあって死者が赴くであろうとされた地の底にまで突き進まれた。生者と死者の深い一線を超えられた。そのわざを確かめながら、わたしたちは死後の世界という幻から、イエス・キリストに照らされたいのちの光のもと、世に遺された真理の足跡をたどる。そこには旧約の民からイエス・キリストを通してわたしたちに拓かれた、活ける真理としての神にいたる道がある。主にある再会を待ち望みながら、召された兄弟姉妹とともに礼拝を守る喜びに、心から感謝したいと願う。主なる神は全ての民を覚えてくださる。そして天に召された兄弟姉妹も、世にあるわたしたち一人ひとりをも覚えてくださる。御自身が愛する民を神が忘れるはずはがない。その記憶が、わたしたちのいのちの喜びを育むのだ。

2019年10月27日日曜日

2019年10月27日(日) 説教

ローマの信徒への手紙3章21~31節
「信仰義認とは」 
説教:渡辺敏雄牧師

 今から500年ほど前1517年10月31日ヴィテンベルクの城壁の扉にカトリック教会に対して95箇条の抗議文を貼り、宗教改革ののろしを上げたのがマルチン・ルターでした。そしてその炎は燎原の火のごとくヨーロッパに燃え広がることになったのです。その宗教改革の大きな原理の一つとしてあるのがいわゆる「信仰義認」であります。信仰によって義とされるというのがあります。当時のローマカトリック教会が免罪符を買うことによって罪は赦され、天国に入ることができると説いたのに対して、ルターはいやそうではない。私たち人間のわざによって、何か功績、功徳によって救われるのではない。「信仰によって義とされ」、救われるのだと説いていったのです。
 ここでわたしたちが気をつけなければならないことは、信仰によってと訳されていることで、わたしたちの信仰の力によって、義とされる、救われると勘違いしないことです。信仰と訳されていますが、本当は「真実」という意味であります。パウロ書簡において信仰と日本語で訳されている言葉は、真実と言い換えた方がいいのです。私たちは、真実によって義とされ、救われるのです。では誰の真実か。それは神の真実です。イエス・キリストの真実です。人間の真実ではありません。信仰によってと訳されますと、人間の側にある信仰によってと考えてしまいがちになりますが、そうではありません。功徳は言うまでもなく、人間の信仰さえ、あえて言うなら世間で聖人と言われている人たちの信仰さえ、自らを義とはなしえないのです。あくまでわたしたちは義とされるのです。受け身であります。義とする主語は神であります。神の私たちに対する真実が、イエス・キリストに現れた神の真実が私たちを義とするのです。あえて言うなら、そのことを信じることによって、その恵みを受け取ることによって私たちは義とされる、良しとされるのです。

 そしてさらに重要なことは、わたしたちを義とする神の真実は、わたしちをまた聖とする、清くするということです。いわゆる聖化です。義認と聖化とは表裏一体です。義認なき聖化はありえないし、聖化なき義認もありえないのです。ペテロの手紙一、1章15節で「聖なる方に倣って、あなたがた自身も聖なる者になりなさい」と言われています。パウロもまたローマの信徒への手紙12章1節で「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてとして献げなさい」と言われています。このように言われて、では聖なる者となるためにがんばらなくてはとなりますと、生活がしんどくなります。義務のようにとってしまいますと、生活は窮屈になってまいります。ここでも聖とする主体は神であります。神がわたしたちを聖なる者とするのです。私たちは聖なる者としていただくのであります。自分が自分の力で聖なる者となるのではなく、神がしてくださる、その力を私たちは受け取るのであります。そのために私たちは神に対して、心をいつも開いていく必要があります。聖霊をわたしたちの心のうちに迎え入れていくのです。聖霊によってわたしたちは聖とされるのです。聖霊においてイエス・キリストを内に迎え入れるのです。キリストの心を我が心としてもらうのです。イエス・キリストにおいて現れた神の真実によって聖なる者とされるのです。聖なる者とされるとは、聖人になることではありません。聖徒としてより一層完成されるのです。そのことで大事なことは祈りです。祈りにおいて「神様、どうかわたしを聖なる者にしてください」と祈るのです。神さまはわたしたちが聖なる者となることを望んでいますから、祈りに応えて、日々聖化の道を歩ませてくださいます。罪人でありつつ、一方では、聖なる者へと近づけてくださる。その途上に私たちは今生きているのです。イエス・キリストに現れた神の真実によって義とされた私たちの歩みは始まっています。また聖化の歩みも始まっています。今日の聖書の箇所31節「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」と言われていることはそのことです。律法が義務として機能するのではなく、恵みとして機能するとき、神が恵みとしてわたしたちに与えてくださった律法が本来的意味を確立するのです。恵みが恵みとして機能するのです。日々のわたしたちの義認と聖化の歩みの根拠、根底にあるのは、あの十字架においてわたしたちに示された罪ある者を義とする神の真実です。その神の真実は今生きているときも、また死ぬるときにおいても根拠であり、根底にあるものであり、また大いなる希望でもあるのです。

2019年10月20日日曜日

2019年10月20日(日) 説教

《こどもとともにまもる礼拝》

「わたしの大切な人はだれですか?」
『ルカによる福音書』10章25~29節
パネルシアターによるメッセージ:稲山聖修牧師


 イエスさまの言葉を受け入れられない、ある律法学者が次のように尋ねました。「先生、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。イエスさまが答えるには「聖書にはどのように書いてあったかな?」。ニコリともせず律法学者は「<心を尽くし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい>とあります」と言いました。イエスさまは「すばらしい!それをやってごらんなさい。そうすればいのちを得られますよ」と勧めましたが、律法学者は「それでは、わたしの隣人とはだれですか?」と重ねて問いました。イエスさまは答えをそのまま教えません。その代わり、譬え話となる物語をお話になりました。それは次のようなものです。
 聖なる都エルサレムから、人の往来の賑やかな街エリコに続く一本の道がありました。岩だらけの荒れ野を通る、寂しくて、時には危険な道でした。そこにある旅人がやってきました。「さあ、急がなくっちゃ。エルサレムでお祈りも済ませたことだし、神さまはきっと守ってくれるに違いない。あの町はサマリア人やいろいろと面倒な人たちもいるんだが、ともかく用事を済ませなくては」。そんなまじめな旅人の前に立ちはだかる人影がありました。何と盗賊です。「おう、兄さん、なかなかご立派な身なりだな。どこへいくんだ」。「何ですか突然に。わたしは旅の途中なのです。道をどいてください」。「偉そうに何を言ってやがるんだ。みんな、やっちまえ!」その声を聞いたとたん、旅人は気を失ってしまいました。身体がしびれて動けませんが、とても熱くなっているのは分かりました。旅人は殴られ蹴られ、お金も服も一切奪われて、裸同然の姿で道端に倒れたまま動けません。「だ、誰か助けてください、助けて...」と思っても、ろれつが回らないのです。


 その場所に、旅人とは反対の方向を急ぐ祭司が通りかかりました。「エルサレムの仕事に遅れそうだ。しっかりお祈りの言葉を献げられるかな。いや、そんな心配をするよりも、まずは集中あるのみ!神さまお助けください」。そんな祭司の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。祭司は心に思いました。「...うわっ!これはひどい怪我だなあ。気の毒だけれども、これは身体が持たないだろう。それよりもエルサレムの仕事、仕事」。血を流して倒れているその人から目を背けて、通り過ぎていきました。次にやってきたのは、レビ人。祭司のお手伝いを始め、神殿でのお仕事をする人です。この人もどこか忙しそうです。「全くもう、あの祭司は人使いが荒くて困るよな。忘れ物をとってきなさい、なんてよくも言えたものだ。あれが神さまに仕える人なのか。それにしても急がなくては!」。そんなレビ人の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。レビ人は心に思いました。「ごめん、時間がないのよ...」。レビ人も目を背けて、通り過ぎていきました。最後に通りかかったのはサマリア人の旅人です。この人は血まみれの旅人を見るや「これは大変だ。消毒になりますから、ぶどう酒を注ぎますよ。それから化膿どめに油も塗っておきます。我慢してくださいね。包帯もしましたから。さ、ロバに乗せますよ。いのちに勝るものはなしってね、心配しないでくださいよ」。サマリア人は旅人を宿まで運んで「大将、一大事だ。この人を看病してやってくれ。お金なら日当二日分置いていくから。帰りに寄るから、足りなかったらその時に言ってくんない」。
 このようなお話をした後で、イエスさまは律法学者に語りかけました。「誰が旅人の隣人になりましたか?」。律法学者はこう言います。「その人を助けた人です」。そこでイエスさまは力強く仰せになりました。「あなたも同じようにしなさい。そうすればいのちが得られますよ」。
 そしてさらに、わたしたちはこの譬え話で、また大切なことに気づきました。祭司やレビ人、そしてサマリア人を結ぶ大切な人がいたことを。それは道に倒れて痛みを堪えている、身ぐるみはがされた旅人でした。この旅人の姿は誰かに似てはいませんか。わたしたちには十字架に架けられたイエス・キリストの姿が重なります。この旅人は、何か素晴らしいことができるはずもありませんが、祭司・レビ人・サマリア人という、立場も考えも違う人々との関わりを結んだからです。イエスさまが伝えてくださった、神の平和を実現する人になりましょう。