2017年7月16日日曜日

2017年7月16日「わたしは福音を恥とはしない」稲山聖修牧師

聖書箇所:創世記16章1~14節、ローマの信徒への手紙1章16~17節

私たちが公には語りづらい物語を旧約聖書は堂々と書き記す。旧・新約聖書の物語を一貫するのは天地の造り主である神であり、その神が世に遣わした救い主が軸となる点。だから聖書は時に私たちの道徳観を突き破るように、理想化された人間像をたたき壊すようなドラマすら描く。
今朝のアブラムとサライ、そしてハガルの物語もそのひとつかもしれない。族長アブラムへの祝福の約束にも拘わらず妻のサライは不妊の女性とされた。神の約束の成就の道筋は秘義に属する場合もある。そして人はその成就を待ちきれずにあらぬ行いへと及ぶ。サライはハガルというエジプトで得た女奴隷をアブラムに遣わす。これはハガルにもサライにも辛い判断だ。「主はわたしに子供を授けてはくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかも知れません」。このサライの思いつめた申し出は、アブラムがカナン地方に住んでから十年後であった。人生が今よりも儚い時代の十年。どれほど長く辛かったことか。
しかしこの憂いを意に介さずハガルはいのちを授かる。世継ぎを授かったことは喜びではあるが、サライにはわが子ではない。張り裂けんばかりの思いは、まずは夫のアブラムに向けられる。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身籠ったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」。この言葉には、ある鍵が隠されている。サライが思いの丈をぶつけるのは夫のアブラムだ。次いでサライは「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」と叫ぶ。サライは側女ハガルに直接思いをぶつけはしない。裁くのは人ではなく、主なる神。思い乱れてもサライはこの一点を外さない。アブラムの答えは「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい」。アブラムが正妻と側女の問題に立ち入ることになれば、問題は余計に複雑になる。アブラムは黙することで問題の源は私にあると語る。
その後サライはハガルを虐める。サライのもとから逃げるハガルは、未来に開かれた主の御使いとの出会いを経る。御使いが問うには「サライの女奴隷ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとするのか」。「女主人サライのもとから逃げているところです」とハガルが答えると、御使いは女主人のもとに戻れと命じた後に「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と約束する。これはかつて主なる神がアブラムに交わした祝福の約束と内容上同一のものだ。神の祝福の前には性差や階級のような一切の生活状況が問われない。続いて身籠ったいのちの名前が刻まれる。「イシュマー・エル」。「エル」とは神を意味する。「イシュマー」とは聞く、あるいは聞いた、を意味するヘブライ語。神がこのとき何を聞いたのか。最も運命に翻弄された、女奴隷ハガルの苦しみであり悩み。旧約聖書の神は最も虐げられた者の悩み、苦しみ、悲しみに耳を塞ぐことなく、そして何らかのわざを行わずにはおれない。それが新しいいのちの名前となる。
この物語をイエス・キリストは幼い時から味わった。そして使徒パウロもこの物語を踏まえ、次のように書き記す。「わたしは福音を恥とはしない」。要となる言葉は「恥」。「私は福音を恥とはしない、それは信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」。パウロは様々な辱めを身に負ったが、それを全て十字架のキリストの苦しみに重ねた。ハガルが受けた辱めと悩み。神の力は他者には語りきれない痛みを通しても私たちの身に及ぶ。この痛みを祈りのうちに分かち合える交わりは、キリストを中心に広がるのだ。