2017年7月23日日曜日

2017年7月23日「二人の主人に仕えられないわたしたち」稲山聖修牧師

聖書箇所:『創世記』18章20~33節、ローマの信徒への手紙1章18~24節

 高度経済成長期、飢えの記憶を忘れようとするかのように日本は戦後の復興を急いだ。他方で教会は別の尺度を掲げてきた。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)。かの時代に教会には多くの女性・こどもたち・社会が求めるのとは異なる特性をもつ人々が集まり「人はパンだけで生きるのではない」との言葉を味わった。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」との言葉で「富」と訳されるのは「経済的な豊かさ」というよりも「富を司る偶像・マモーンの神」。マモーンにひれ伏して幸せになれるとの考えが新約聖書の記された時代にはあった。
 旧約聖書にある族長アブラムと甥のロトと物語。豊かになった争いを調停するために、アブラムとロトは別の道を行く。ロトが選んだのは見渡す限り潤っていたヨルダン川流域の低地一帯の都市国家ソドム。
 ソドムは豊かさが却って災いし、ヨルダン川流域の都市国家同士の略奪戦争に絶えず晒される。人心も荒廃し、人々は刹那的な享楽の虜となる。まさに「神ではなく、マモーンにひれ伏す町」。宇宙万物の創造主であるアブラハムの神はどのように向き合ったのか。
 「主はいわれた。ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降っていき、彼らの行跡が、果たして私に届いた叫びの通りかどうかを見て確かめよう」。宇宙万物の創造主はソドムを直ちに裁くこともできたはずだ。けれども神が完全であるほど、軽々しくその裁きのわざを振るわない。神は暴君ではない。自然災害や天変地異も神の裁きであると理解された時代、アブラハムは根本的な問いを発する。アブラハムはソドムにマモーンを拝む者がいたとしても、正しい者がいたとするならどうするのか、神に仕える者がいたとするならばどうするのかと迫る。繰り返される問答の中、10人しか正しい者がいなかったならと問い、主なる神は「その10人のために私は滅ぼさない」と応じる。
 『ローマの信徒への手紙』の今朝の箇所では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。なぜなら、神について知り得る事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地はありません」と厳しくパウロが神の審判について語るとき、私たちはこの手紙がローマのキリスト教徒に向けられており、神との関わりに開かれてなおも、どっちつかずの態度に揺れ動いている者がいるのを前提にしている。なぜこのような諫めをパウロは語るのか。「そこで神は、彼らの心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」。人の身体を、神の御霊の宿る神殿としてパウロは理解する。マモーンとの関わりの中で神殿を汚すのは、神の冒涜に留まらず、人の在り方や教会の交わりを歪めることをパウロは知っていた。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらからである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。神の賜物としての富に関わるならば、それは神に仕えるため、証しするためのもの。私たちはもはや二人の主人には仕えられない。だから安心して誘惑に満ちた世に漕ぎ出そう。「われらを試みに遭わせず悪より救い出し給え」との祈りはすでに聞かれている。