2017年2月5日日曜日

2017年2月5日「出来事としての啓示」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書13章10~17節

 弟子たちはイエスに近寄って「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と言った。それは敢えて弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからだ」と主イエスが語っている通りだ。主イエスは文化人のサークルの中で教えを語ったり、対話を好んだりしたわけではない。民衆の中に分け入っていき、神の慰めと癒しの言葉を証ししたのが主イエスだ。その言葉は「たとえ」という表現を伴う。なぜか。暮らしの中の一場面を用いる中で、聴き手に気づきを与えることが、神の国への窓につながるからだ。「たとえ」の意図は分かりやすい話に秘められたメッセージに、神の国の窓を気づかせること。分からなければ、その話は他人事として終わる。この「私」に迫るメッセージなのか、それとも他人事か。これが主イエスの語る「たとえ話」のもつ醍醐味だ。残念なことに、神の国のたとえ話はなかなか伝わるものではないよ、と主イエスは弟子たちに語る。それは旧約聖書に根ざした、主イエスの極めて鋭い洞察に立つ。
旧約聖書は神の前に過ちを犯さない人はどこにもいない、義人はいないとの立場にある。それゆえに人間そのものの能力に対し、主イエスは自分の言葉を受け入れる力をあてにはしていない。人の言葉のやりとりには必ず誤解が生じる。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くこともなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない」。イザヤは何もその時代の愚かな人々を指して言ったのではない。神に選ばれたはずのイスラエルの民でさえこのような穴を避けられなかった。
 けれども、と主イエスは続ける。「しかし、あなたがたの目は見ている」。「あなたたがたの耳は聞いている」。だから幸いなのだという。「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものをみたかったが、見ることはできなかった。あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかった」。預言者や正しい人、神の前に無垢であった人でさえ、聞くことなく、見ることもなく、隠されていたことがあったと主イエスは語る。それは出来事として、天の国の秘密を開くイエス・キリストの啓示として起きる。イエス・キリストとの関わりが生まれるとき、私たちは俗世の知識とは異なる知恵を授かる。私たちは鶏が鳴く前に三度主イエスを否んだ弟子のペトロを想起したい。ペトロは慟哭とともに主イエスの言葉を全身全霊で受け止めた。和解の主イエス・キリストの啓示の出来事に触れ、心眼を開かれた一人の人間の姿がそこにある。