聖書箇所:マタイによる福音書5章17~20節
「律法」には二つの意味がある。ひとつには、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記という、かつてはモーセ五書とも呼ばれたひとまとまりの書物、今一つには出エジプト記にある十戒を枠組みとした613の誡めを示す。主イエスは律法学者と激しい論戦を行った。だがファリサイ派や律法学者を憎んだとは福音書には記されない。むしろマタイ福音書5章20節では「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とある。主イエスは、律法学者の正しさ、あるいはファリサイ派の正しさや誠実さといったものに、一定の評価を与えている。では律法学者やファリサイ派が抱えていた問題点とは何か。それは律法の理解の排他性にあったといえる。崇高な言葉が金科玉条として掲げられ、排除を生むならば文字は人を殺す。
律法学者は概して信仰の浅さ深さを問うたが、本来はメシアを仰ぐ態度を顧みるべきであった。信仰は生き方であり、説教も生き方。だからこそ主イエスは語る。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国では最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。比較も善し悪しも越えた神の恵みなしには私たちは聖書の字面を追うだけだ。
律法の完成者の語る教えは「善いサマリア人のたとえ」。ある律法学者が「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいか」と主イエスに迫る。この場面で主イエスは律法の一文を相手に答えさせる。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」。主イエスは、この律法学者の答えを「正しい答えだ」と肯定する。その上で「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答える。なおも食い下がる律法学者に語るのは、ユダヤの民からは穢れた人々とされ、一切の関わりを絶たれていたサマリア人が旅人を助けた物語。「隣人となったのは誰か、律法を守ったのは誰か」と問う。
主イエスの聖書の解き明かしは、聖書を共有していない人との交わりをも育む。主は神の愛につつまれて生きる道を備える。その途上、私たちはわれ知らずして、思いも寄らなかった和解のわざを、隣人と結ぶ恵みとして授かる。主の足跡を辿り、祈り求めよう。