聖書箇所:マタイによる福音書14章22~36節
主イエスは弟子たちを強いて、無理矢理に舟に乗り込ませ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。さらりと主イエスの振る舞いを描く箇所。考えてみれば無茶だ。弟子たちに主イエスはいつ戻るかも知らせずに向こう岸に渡るようにと舟に乗り込ませる。弟子を心細さの極みに置く主イエス。夜が訪れようとするその時、舟を嵐の只中に送り出すとのわざ。秋から冬にかけて、ガリラヤ湖には突風が吹き荒れ、それが半日も続くこともある。それが夜の湖ならばなおの恐怖。旧約聖書との関連で今朝の箇所は俄然活きいきとする。例えば創世記の洪水物語。それは生ける者を根切りにする大災害である。預言者ヨナはヨナ書で神のみ旨より逃れようと船に乗るものの、嵐の海に投げ込まれ、魚の腹の中で回心する。出エジプト記でヘブライ人を追いつめるエジプト軍は、海の底に沈む。
このように水や海と関わる箇所を集めると、異なる意味合いも含まれてくる。暮らしに不可欠ながら、命をも飲み込む諸刃の剣としての世。弟子たちを乗せた船は混沌とした世に人の命をつなぐ場となる。世に隠された教会の働き。しかし弟子は恐怖に呑み込まれて混乱するばかりだ。
混乱の中で声を上げた弟子。それは主イエスの筆頭弟子と目されるペトロ。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫ぶ覚束ないその歩み。
「主よ、助けてください」。私たちはこの一週間、何度この言葉を呟いたことか。けれども主イエスは手を伸ばして捕まえ、ペトロが世の波へ沈まないようにする。
本日の箇所は、ペトロを諫める主イエスの言葉だけに終わらない。「そして、二人が舟に乗り込むと、嵐は静まった」。主イエスの「安心しなさい」との言葉がここで実現する。そして弟子たちは「あなたは神の子だ」と主イエスを礼拝する。その結果与えられた力とは、ゲネサレトという地に到着し、癒しのわざを行われたとの記事で終わる。主イエスの癒しは弟子と無関係ではない。湖での試練を通して教会は主イエスとの絆を確認し、癒しの力を新たに注がれる。「強い風」とは、主イエスを知らない者には恐怖の源だが、主イエスをキリストであると告白する者には聖霊の働きとなる。主イエスのわざは創造主なる神・聖霊のわざと不可分である。この週私たちは受難節を迎える。神の愛に包まれているとの確信を得て新たな週を歩みたい。