聖書箇所:マタイによる福音書4章1~11節、ヤコブの手紙1章12~18節
映画『沈黙』の中には、禁教下の日本で迫害されながらも、キリスト教信仰を守っている信徒たちの姿が描かれています。信仰を守り抜いて殺された「強い人」がいて、信仰を棄てた「弱い人」がいました。神を信じたために迫害され殺されていくという不条理の中、神は何をしておられるのか。それは作品の最後で明らかになります。「私は沈黙していたのではない。苦しんでいるあなたたちと共に苦しんでいた。そのために私は十字架に架かったのだ」と……。このような神は、現代を生きる私たちの間にも見ることのできる、感じることのできる神様の姿ではないでしょうか。
『ヤコブの手紙』には、「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」と記されています。神様が「強い人」と「弱い人」を分けて創られたのではありません。人間が他者を「強い」とか「弱い」とか裁くのです。2000年前にパレスチナの地を歩まれたイエス様は、そのように社会の中で「役に立たない」「価値がない」と裁かれ、差別されていた人々の所へ出かけて行かれては、「あなたも大切な人なんだよ」と、伝えて行かれました。そしてその言葉や振る舞いは、自他を裁くという「誘惑」から人々を解放していくものでした。
先日の水曜日から、教会暦では「受難節」に入りました。主イエスの苦難と十字架の死を覚え、また私たち自身も自らの苦難と取り組み、その先にある「復活」という希望を見出す期間です。イエス・キリストはその公生涯の初めに、「石をパンに変えよ」「天使たちに支え守ってもらえ」などという悪魔の「誘惑」を退けられました。イエス様はその公生涯を通じて、人々のために数々の奇跡を行いましたが、ご自分のためには奇跡を行われませんでした。そしてその最期ですら「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」という「誘惑」を退けられました。そのようにして主イエスはご自分が「神の子」であることを、「力」や「奇跡」によってではなく、全ての人々のためにご自身を献げられるという徹底した「愛」によって、私たちに示されたのでした。
この世界は、「試み」と「誘惑」に満ちています。私たちも「誘惑」にさらされ、「奇跡」を求め、他人を裁いてしまうことがあります。御心に従い、全ての生命を大切にする生き方ができる者へと変えられて行きたいと願っています。