聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節
東北地方沿岸部では、津波で亡くなったはずの家族に出会った体験談が頻繁にある。迷信だと決めつけられない嘆きがそこにある。この体験は温もりや励ましといった「ともにいる感覚」を鋭くし、生きる負い目を断ち切る。原発事故が終わらない一方で犠牲者に励まされ歩む人がいるならば世の終末とは別の意味で近代の終焉を感じる。
本日の聖書の箇所ではイエスが当時としては都会であり、聖なる都であるエルサレムに必ず上り、そしてそこで政治的な権力も備えていた長老、祭司長、律法学者たちから苦しみをうけて殺されるとの話を、主イエスは弟子たちに打ち明ける。するとペトロはイエスを諫め始める。しかし主イエスは言う。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神を思わず、人を思っている』」。ペトロへの徹底的な拒絶がある。なぜか。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ペトロは主イエスへの負い目がなく、自己への絶望がない。主イエスは負い目から目をそらすなと語る。続いて「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。「わたしのために命を失う者は、それを得る」。この決断は別の言葉で言い換えられる。「わたしのために命を献げる者はそれを得る」。
創世記の族長物語では、アブラハムがイサクを神に犠牲として献げようとする。神がアブラハムを選んだ事実はそのわざに先んじる。イサクは死ななかった。だから主イエスは語る。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」!荒野の試練の物語でサタンは主イエスに全世界を引き合いにして誘惑した。メシアの復活を拒むペトロの態度はサタンのわざと同じだ。
主イエスの問う厳粛な決断は次の道筋にある。「人の子は、父の栄光輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。神の選びの決断、恵みの決断を拒み、神なしに全世界を選ぶならば、神の祝福は裁きとなって臨む。誰かは終わりの時まで分らないは、恵みの安売りを主イエスはしない。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国とともに来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。ここに記される「死」とは己のいのちと全世界との取引。この取引に関わる者は、幼いいのちや小さないのちを虐げる。他方身を挺して生きるなら、神の国の訪れとともなる復活がある。魂だけでもそばに居てほしいとの嘆きを負いながら復活の主イエスは悲しみを静かに癒す。