聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節
世に言う山上の変容の物語。主イエスが受難の歩みと死と葬り、そして復活の出来事に無理解なペトロをしかりつけ、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」と語った六日の後。
主イエスは十字架での死と復活を拒んだペトロも含めた三名の弟子を連れて山に登った。ここで主は、まさにメシアとしてよみがえり、天に昇られたそのままの姿を弟子の前に露わにする。さらに主イエスはモーセ、そしてエリヤと語り合っているという、一見不思議な光景がこの箇所では描かれる。主イエスがメシアとして担う役割と関わりが、「語り合う」との言葉のもと活きいきと描かれる。
モーセもエリヤも、イスラエルの民の無理解のもと、懸命にアブラハムの神の召出しに応じて闘った解放者であり預言者。モーセは貧しさの中で鈍するヘブライ人のため、エリヤは神なき繁栄に溺れるイスラエルの民を導くため生涯を献げた。
この場に居合わせた弟子達はただただ狼狽える。「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。仮小屋という言葉はドイツ語ではヒュッテと記される。山小屋というよりは祠のようなものかもしれない。出来事としての啓示を弟子は受けとめきれず、暮しとはほど遠い場でひたすら奉ろうとする。教会の信仰と偶像礼拝は紙一重の差に過ぎない。
けれどもモーセやエリヤとは異なり、主イエスはそんな愚かな弟子たちをお赦しになる。アブラハムの神も主イエスに全権を委任する。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたとありますが、イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい、恐れることはない」。イエス・キリストを通して私たちにアブラハムの神が深く関わってくださっているとのメッセージが響く。
山の上での出来事とともに、受難の痛みをすでに知り、弟子たちに語るイエス・キリスト。そこにはモーセやエリヤと同じように苦しみや孤独の中で、なおも神の国の訪れを証しした救い主の姿がある。神の国は光り輝く雲に隠されていた。いのちの希望がそこにある。教会の奉仕に倦んでしまったときには、礼拝のみに集中し、主の言葉に耳を傾けるところから再出発したい。齢を重ねる毎に、私たちは輝く雲に包まれる中で、主イエスが私たちに手を触れていることに確信を深める。病の床、戦の世、暮しの困窮、競争社会の中にあっても、その確信は変わらない。