2017年4月2日日曜日

2017年4月2日「力の支配を破る救い主」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書20章20~28節

 「忖度」との言葉が流行っている。ドイツ語では「発言なしの指示」と「先回りの服従」と訳される。直接的な命令への服従だけでなく権力者が期待する行動を下位の者が自主的に推測して行う服従。この言葉は空気と化した上下関係を前提とする。先回り服従が不首尾となっても上司は責任を回避して部下の失態として扱える。
 この状況で主イエスの言葉は重く響く。ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が息子とともに主イエスに「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れると仰ってください」と願う。息子を思う母の思いが、期せずして弟子達の間に権力闘争の火種をもたらす。世に様々な欲がある。睡眠欲や食欲という生命の基本となる欲もあれば、支配欲や名誉欲という社会性に依存した欲もある。勲章を求める欲は見えづらいだけに質が悪い。
「あなたがたは自分が何を願っているのか分っていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と主イエスは問う。ゲツセマネの祈り、すなわち「父よ、できるなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」との言葉にある「杯」が、歪んだ上昇志向に楔を打ち込む。これこそ主イエスが弟子に示した道。
一連のやりとりは他の弟子にも聞こえるところとなり混乱が生じるが、ここで主イエスは決めゼリフを語る。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。忖度の入る余地はここにはない。イエス・キリスト御自身への服従が聖書の組織論の鍵となる。
 泉北ニュータウン教会と「車の両輪」の関係にあるこひつじ保育園の組織論の原則はこの箇所に根ざす。教会にはさまざまな特性と賜物を授かった兄弟姉妹が集う。保育園の先生方も園児さんも実に個性的である。だからこそキリストに従う姿勢に根を下ろさなければ、教会でも保育園でも劣等感に苛まれる苦しみや人を見下す傲慢が起こりうる。しかし毀誉褒貶に左右されるあり方はイエス・キリストの十字架と復活によって粉々に砕かれる。礼拝は讃美とともにその出来事を確かめるわざでもある。復活の光に照らされながらイエス・キリストの十字架への道とその杯をともにしつつ新たな年度を始めたい。