2017年4月30日日曜日

2017年4月30日「朝の食事をともにされるキリスト」稲山聖修牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節

本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の復活物語。本日の福音書の記事に重なる話は、ルカによる福音書24章にもあるが、ヨハネの場合は弟子たちの関わりが実に丁寧に記されているところが異なる。弟子たちがキリストに従う原点ともなった湖畔が舞台であり、内容は弟子たちが網を捨てて主イエスに従ったという召出しの記事の繰り返しに見える。けれども決定的に異なるのは、弟子たちと語らう主イエスが、すでにキリストとしての姿をはっきりお示しになったところ。7節には「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然であったので、湖に飛び込んだ」とある。三度目の出会いであるにも拘わらず何の備えもできていない、その意味では何も変わっていない弟子たちの姿。けれどもイエス・キリストを見据えるならば、私たちは喜びとともに「全てが新しくされた!」と語らうことができる。それだけではない。復活したイエス・キリスト自ら炭火を起こして魚を焼き、パンも備えてくださっている。キリスト自ら炭火を起こし、魚を焼いてパンを備えてくださっている描写は特異である。旧約聖書の物語や新約聖書の他の箇所や物語でも、祭壇や食卓を整えるのは神ではなく人であるからだ。食材は漁師たちの日常の食事だが決して粗末ではない。その上でキリストは語る。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。有無を言わさない仕方でその場におられ、主は自ら備えた朝の食卓に弟子たちを招く。キリストとの関わりの下で、弟子は霊肉ともに養われ、交わりを回復し、新たな働きに備える。
教会生活に疲れを覚えて去っていかれる方はどの教会にもおられる。けれども忘れていただきたくないのは、弟子たちは一切の力みなしに、ペトロの無様な姿も含めて、復活の主に出会っていることだ。教会は聖人君子の集まりではない。けれども人の世に打ち勝つ神の恵みも変わらない。私たちの聴くべきメッセージは、噂でも世間体でもなく、イエス・キリストとの関わり方である。教会は聖書に記された神の恵みに、感謝とともに応えていく群れであります。私たちのために、自らを献げものとされた、神からの贈物である主イエス・キリスト。キリストこそが世にある私たちの暮しの土台、判断の土台なのだ。