2017年4月16日日曜日

2017年4月16日「復活の光、いのちの勝利」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章1~10節

 キリストの葬りにあって「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人」が描かれる。「身分の高い議員」とされる。ヨセフのピラトへのイエスの亡骸の引き取りの申し出は危ういわざ。十字架刑はローマ帝国への反乱者にのみ執行された、反政府勢力への見せしめも兼ねての刑法だからである。しかしアリマタヤのヨセフは承知の上で主イエスの亡骸を亜麻布に包み自分の墓の中に納めた。当時の墓地は家族単位で掘られたため、ヨセフはイエスを自らの墓に招いたこととなる。真の人キリストの死後に深められた絆を見る。
 しかしこの絆は、死してなおイエスを恐れる暴力に踏みにじられる。復活理解の相違による分裂を恐れる祭司長とファリサイ派の議員。もとより凡庸な総督ピラトはエルサレムでの騒動を役職上の事案として恐れるのみ。「人々は前よりもひどく惑わされることになります」という27章64節の言葉はピラトへの恫喝でもある。遺体を納めたアリマタヤのヨセフの墓は今やピラトの権限で封印され番兵が置かれた。いわば差し押さえられたのであった。
 受難日が葬りの一日目。安息日を挟んだ翌朝。マグダラのマリアと母マリアにとり、主イエスは救い主であり、愛する人であった。マルコによる福音書ではイエスの身体に油を塗るためにと、より具体的に記される。遺体そのものへの接触は汚れを意味した。とはいえこの二人の女性も、ユダヤ教の掟を冒すリスクを厭わない。この姿勢を踏まえ、マタイによる福音書ならではのキリストの復活物語が記される。キーワードは「主の天使」。大地震とともに墓に臨み、墓を封印している石を転がしてしまう。今朝の箇所での墓石は墓穴の蓋以上に、主の復活を恐れる人々が設けた封印だ。その封印は、主の御使いの力によって意のままにされる。番兵でさえも震えあがり、死人のようになった、とある。主なる神の力に拠り頼む者には命の息が注がれ、世の力に操られる者はその糸が絶たれる。世の暴力には目もくれず天使は女性に語りかける。その語りかけの最後にある「確かに、あなたがたに伝えました」はマタイによる福音書にしか記されない。
 「確かに、あなた方に伝えました」。神の力に満ちあふれたその言葉は新しい希望を備える。その希望のゆえに女性たちは喜ぶ。行く手に立つイエスは「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、ひれ伏す。女性達はイエスの足を抱擁する。十字架の絶望の先には復活の不滅の光がある。その光はいのちの温かさに満ちている。
マタイによる福音書の復活物語には、主イエスと関わった人々のいのちの勝利への揺るがぬ確信が記される。教会は世に翻弄される度毎に、神の愛の力である聖霊によって復活の出来事に立ち返るよう導かれてきた。世の尺度と教会の尺度が決定的に異なるところは、復活の出来事にある。キリストは甦ったのか?この世の問いにキリストは復活したとの喜びを以て私たちは応じるのだ。